クロス ☆
エロ有
※(正確には)御克じゃない!地雷注意!※*6月頃の設定*捏造設定満載
*2013.05.19改訂




 ──なんなんだ、一体。

 先の見えない道なき道を、あとどれだけ進めばいいのか。
 概算もできない苛立ちに、御堂は忌々しく息を吐いた。
 恐らくもう一時間近く歩いているはずだが、何しろ周囲は前後左右一寸先も見えない程の暗闇だ。左手首に付けた腕時計にいくら目を凝らしてみても、その盤面を確認することはできず、正確にどれくらいの時間歩き続けているのか分からない。
 何故こんな場所にいるのか、なんのために歩き続けているのか。
 ひとつも解決されない疑問に苛立ちは増すばかりなのに、とにかく進まなければという不可思議な焦燥感に駆られ、気が狂いそうな暗闇の中で御堂はただひたすら足を交互させる。


 半年前に発売された新製品、プロトファイバーの売れ行きは好調だ。
 昨年に販売を開始したサンライズ・オレンジの売上不振に陰る商品企画開発部第一室の威信、延いてはMGNの社運を賭けて開発された新製品の営業業務を、『お荷物』と称される子会社の部課に一任させることには、一室内は元より上層部からも不満の声があった。
 どこで嗅ぎ付けたのか、新製品の営業担当をさせろとアポイントメントもなく訪ねてきた無礼さについ感情的になり、売り言葉に買い言葉でまんまと乗せられた己を悔いても仕方がない。全く軽率だった。
 しかしながら結果的に、当初指定した損益上十分な売上目標を早々にクリアし、それならばと若干意地の悪さもあって提示した、社の設定ではなく御堂があくまでも個人的に算出した数字をもさらに上回る実績を上げたことには、正直なところ感服した。
 この製品は必ずここまで売れると確信した上ではじき出した値ではあるが、まさか本当にたったの三ヶ月で達成してしまうとは。
 あれだけ大口を叩いたのだから当然とはいえ、ここまでの数字を上げるとは当の八課も予想外であろう。
 何はともあれ、不満気だった上層部も空前のヒットにすっかりご機嫌、一室はもちろん刺激を受けた企画開発部全室がより意欲的に商品開発に取り組み、社内全体の活性化にまで繋がっている。
 進行している現在のプロジェクトも、そんな沸き立つ雰囲気に押し上げられ見通しは明るい。
 新製品の売上は好調、進行中のいくつかのプロジェクトは全て順調とあっては、週末たまには定時で帰宅してゆっくり夜を楽しもうといった気分にもなるものだ。
 多忙のせいで最近はまともにワインを口にしていなかったから、贔屓のワインバーに出向こうか。それとも趣向を変えて蒸留酒でも飲んでみようか。いやジムでたっぷり汗を流すのもいい。なんなら一夜の熱に浮かれるのもそれもまた。
 御堂にしてはどこか奇妙なほど心が躍って、上機嫌で帰路に着いた──はずだった。
 気付いた時にはすでに辺りはこの暗闇で、頭の中ではなぜ、どうして、という疑問が渦巻くのに、足が勝手に前へと動いていた。
 服はスーツのままだが、手にしていたはずの鞄は知らぬ間に消えていた。財布も携帯電話も鞄の中だったのに、と、この状況からは少しずれたことを考える。
(なんだ、夢か? いつの間にか眠ってしまったのか……)
 そうだ。夢だ。そうでなければ、こんなことなどありえない。
 こんな、歩いても歩いてもどこへも辿り着かない真っ暗な道など、現実にあるわけがないじゃないか。
 自宅へ帰った覚えも、どこかホテルにでも入った覚えは全くないが、きっと疲れのせいから無意識のうちにベッドに入ったのだろう。
 夢にしては感覚がずいぶん生々しいが、たまにはそんな夢だってあるはずだ。
 夢なら夢で、早く覚めてほしい。夢とはいえ、さすがにいい加減疲れてきた。
 上がった息を整えようと、大きく深呼吸し何度目かに息を吐いたその時。
(……っ!)
 いくら歩いてもただ暗闇ばかりだった視界の前方に、唐突に光の筋が見えた。
 数十メートル先だろうか、短く縦に一本、糸のように細く白い光線が、しかし眩しく闇を切り裂いている。
(ゴールか。ゴール? なんの?)
 この奇妙な夢から覚めるのか、それともまだ不可思議なことが続くのか。
 なんでもいい。この暗闇から解放されるなら、早くあの光の元まで辿り着きたい。
 ──例えそこで、何が起きても。そこに何があろうとも。
 耳元で、そんな声が囁いた気がした。
 静寂に包まれた暗闇。今の今まで御堂自身の他にはなんの気配も感じなかったはずなのに。
 人を拐かし、捕らえ、貪るような、ねっとりと揺らぐ声。
 まさか、気のせいだ、と頭を軽く振って、闇の切れ間へと急いだ。


 光の目の前までくると、あれだけ動き続けた足が自然に止まった。もしそのまま素通りしてしまったらどうしたものかと思ったからほっとした。
 どうやら光は、僅かに開いたドアの隙間から漏れているらしい。
 目の前まできておいて『らしい』というのはおかしいが、例えとしてドアの隙間から室内の明かりが漏れているように見えるだけで実際に扉のようなものは見えないし、光の先も眩しすぎて直視できず確認できない。
(……あ)
 とりあえず光線の脇を手で押してみると、何も見えないにも関わらず、少し重い扉を押しているような手応えを感じた。
 押すか、否か。
 そんな、ここまできて否はない。
 この見えない扉を開けたら、夢から覚めて現実に戻れるかもしれないのだし。
 仮に扉を開けた瞬間中から魑魅魍魎が湧き出でたとしても、夢なのだからいいじゃないか。滅多に見ることがないおかしな夢を楽しもう。
 歩き続けた疲労のせいか、そんなくだらないことを考える自分に苦笑しつつ、御堂は見えない扉を押した。

 扉が開いて溢れた、あまりにもまばゆい光に目が眩んだ。
 しかし次の瞬間、強烈な白い光は嘘のように消え、代わりに柔らかな暖色の灯りが視界を宥めた。
(ここは……)
 そこは紛れもなく、御堂の自宅の寝室だった。
 三十路を迎えて購入したマンションは、終の住処にするつもりはないものの、将来家庭を持った時もそのまま居住できるように、部屋数の多い物件を選んだ。
 というのは建前で、御堂としてはまだ結婚など頭にないし、そもそも人生を共にしたいと思う相手に今まで出会ったことはなく、自身の性格からいえば恐らくこれからも出会うことはないだろうから、広い家がいいという単純な理由が本当だ。
 一応社会的に、数年のうちには身を固めたほうがいいと頭では分かっているが、実のところどうも気乗りがしない。
 恋人すら家に上げたことがないのに、これから誰かと生活を共にし、御堂の好みによって完璧に設えられた空間を余人に侵されるかと思うと、無意識に眉根が寄ってしまう。
 よほど無理だと思うならば、独身貴族も一考という現状だ。
 当然この寝室も、全てが御堂の思うままに仕上げられ、御堂孝典という個人が色濃く反映され、無駄なものはひとつもなく、御堂のためだけの世界で……。
「なんだこれは」
 驚きのあまり、心の声が音になって口から出た。
 確かにここは自宅の寝室だ。そう、今朝もこの部屋で目覚めた。
 それなのに、見渡す部屋の様子がまるで違う。
 室内に広がるルームランプの灯り。背の高いスタンドライトを部屋の隅に一基だけ置いてはいたが、対極する位置に同じものがもう一基増えている。眠るための寝室を、二基ものライトで何をそんなに照らす必要がある。
 ベッド脇の小型の保冷庫。寝室には睡眠を含めてもあまり長くいることがないから、わざわざそんなものを設置するほど喉が渇くことなどない。
 家具の配置。カーテンの色。寝具の色。自宅を出てから十時間程度の間に、なぜこれだけのものが変化しているのか。
 いや、目に見えるものももちろんだが、何よりもこの場を満たす空気に、御堂は違和感を覚えた。
 驚きがつい口を衝いたのも、なぜライトが、なぜ家具が、という疑問からではなく、部屋を包む雰囲気そのものに異質を感じたからだった。
 御堂が今まで知り得なかった、この世をひっくり返すほどのとてつもなく重大な何かがこの空間にあって、それが違和感となって漂い、御堂の胸を打ちつける。
 明確な何かが違うのに、何が違うのか分からない。
 家具が違う、色が違う。それは見れば分かる。そうではなく、何かが。何が。
 ああそうか。そういえば、これは夢なのだった。だから室内が変わっても、何かに違和感を覚えても、当然なのかもしれない。
 そう、夢。夢だ。
 ──それなのになんだ、この圧倒的な現実感は。
「ん……」
「っ!」
 違和感の正体を探ろうと、立ちすくんだままだった御堂が一歩踏み出した瞬間、寝具の色が今朝とは違うベッドから僅かに呻いた人の声がして、羽根布団がもぞりと動いた。ありえない出来事に、御堂は息を飲む。
 よく見れば、薄い羽根布団が内側から盛り上がり、誰かがベッドに入っていることを示している。色が違うと見てはいたのに、全く気付かなかった。
 誰かが自室のベッドにいるなど、御堂はこれまでの人生で経験したことがない。
 つまりは不法侵入者が、こともあろうに堂々とベッドで寝ているのだ。
 いや、これは夢だ。ということはもしかしたら、ここは誰かと生活を共にすることになったいつの日かの寝室なのかもしれない。
 そう思った途端、もやもやと漂っていた違和感が、さっと晴れた気がした。
 家具が違う──二人暮らしに都合がいいように。色が違う──相手の好みも取り入れた。言い知れぬ違和感──何にも代えがたい、大切な相手がここに存在しているという、絶対的な幸福。
 この寝室には、幸せが満ちている。なんとも全身がむず痒くなる理由が、違和感の正体か。
 幸せに違和感を覚えるとは、私はどんな人生を送ってきたんだと自嘲したところで、思い当たるのだから仕方ない。
 御堂にとっての幸福は、仕事が順調だとか、ワインがうまいとかそういったことで、愛する人との生活など思考の端にも上ったことがない。
 愛という不確かなものを鼻で笑ってきた御堂だが、この夢では確かなその存在を手に入れているらしい。
 夢とはいえ、一体どんな相手か非常に興味深い。
「ん……たかのり、さん?」
 ぜひそのご尊顔をと近づくと、ベッドの中から自分を呼ぶ声がする。
 なるほど。孝典さんと呼ばれているのか。なかなか可愛らしい声じゃないか。
 可愛らしい……可愛らしい、声?
 ベッドの中から聞こえてきた声は、優しげで穏やかそうな好ましい響きであった。しかし御堂はその音にまたしても違和感を覚えた。
 違和感というより、御堂の想定との相違といったほうがいいだろう。
 言い知れぬ違和感ではなく、考えるまでもない確実な相違。
(男……?)
 鼓膜を揺すった音は、柔らかく高めの響きではあるが、どう聞いても男性の声だった。
 意識して見れば、キングサイズのベッドの上、横たわる体に沿って盛り上がる羽根布団の膨らみからしても、御堂とほぼ変わらない体躯がそこにあると想像できる。
 広い室内を充満させるほどの幸福をもたらしているのが、よもや男性であるとは。
 男性との経験自体は多少ある。
 しかしそれが恋愛関係から生じたものであったかといえば、経験した幾人かの全て、そうではなかった。
 女性とは、恋人と名の付いた付き合いをすることもあるが、男性とはあくまでも一夜の出来事とか、相性がよかったから気が向いた時に何度かということばかりだ。
 興味本位で一度経験してみたらまずまずだったから、その後も機会があればたまにはそんな夜もあるというだけのこと。
 戯れ。火遊び。御堂にとって男性との情事は、常にその程度の感覚だ。
 それなのに、男性がパートナーで幸せこの上ないような夢を見るとはなんとも滑稽だ。
 やはりこの先も生涯を共にする相手には巡り会えないという暗示だろうか。
 まあいい。夢なのだから。
 男だろうがなんだろうが、違和感を抱くほどの幸せを自らにもたらしている人物を、とくと拝もうじゃないか。
 どこか緊張しながら枕元まで歩み寄り、目覚めたばかりなのかもそもそと落ち着きなく動くダークブルーの寝具に手を掛けた。
「孝典さん……」
「っ、君は……!」
 俯せで枕に片頬を付け、寝ぼけた瞳でぼんやりと御堂を見上げた男のかんばせに、御堂は驚愕した。
 ──佐伯克哉。MGNの子会社、キクチ・マーケティング営業第八課の一社員。
 半年前、プロトファイバーの営業を担当させろと乗り込んできた無礼な社員のうちの一人。
 乗り込んできた当初は、体も声も態度もでかいもう一人の男の後ろでおどおどとしていたのに、途中で様子が急変し、御堂を凌駕せんばかりに捲し立て、営業委託の了承をもぎ取った男だ。
 しかしその後は、そんな横柄な態度が幻だったかのように、常に穏やかに、根気強くプロジェクトに取り組んでいた。
 プロトファイバーが異例の大ヒットを記録した要因は彼の功績によるものが大きく、特に大手通信販売会社のバイアーズへの流通経路ができたことは、今後のMGNにも多大な利益を与えることになるだろう。
 おどおどと頼りなさそうだと思えば突然横柄に、という不可解な第一印象ではあったが、彼の業務は細やかで的確、いわば痒いところに手が届くような仕事の仕方で、自然な流れで御堂のフォローもさせるようになると、その存在がありがたく思う場面も少なくはなかった。
 次のプロジェクトの製品も八課が営業担当することになって、また彼と共に仕事ができるのかとひそかに嬉しく思っている。
 いち言えば十理解するし、何気ないひと言や仕草から相手の心境を正確に読み取り、さりげなく気遣う。
 これだけ優秀な人物が、お荷物とまで言われた部課で燻っていたとは、御堂にはなんとも理解しがたい。
 直接そう伝えると、そんなオレなんてと俯く彼に、なぜか苛立ちにも似たやり切れなさを覚えたこともあった。
 優秀でありながらそれをひけらかさずに謙虚でいるのは好ましいが、彼はもっと自信を持つべきだ。
 指定期間の三ヶ月の多くを共に過ごしたせいか、御堂の中では彼に対して親心のような感情が芽生えていた。
 他の部下にも長としての責任と恩情は当然あるが、彼には不思議とその情を超えた念を感じる。
 分かりやすく有り体に言ってしまえば、かわいく思っているのだ。
 だからといってそれ以上の感情などありはしない。
 確かに彼のことは好ましい。だがそれがこんな夢まで見てしまう方向の感情ではないはずだ。
 しかし現状から一応彼を生涯の伴侶として想像してみると、相手としてなんら不足はないような気がする。いやむしろ十二分ではないか。
「ごめんなさい、オレ、眠っちゃったみたいで」
 激しく電流が行き交う思考回路に、彼の静かな声が滑らかに入り込んで流れが止まる。
 我に返って改めて彼を見下ろすと、こしこしと子供のように目元を擦ったその仕草に甘く鼓動が跳ねた。
「孝典さん? どうしたんですか?」
「いや……その、あの、いや……」
「……?」
 何を言えばいいのか分からない。果たして今のこの状況はなんなのだろう。
 夢である。夢の中ではパートナーを得ているようだ。その相手がかわいがっている部下である。ちなみに男の。その相手がベッドにどうやら裸で入っている。
 つまりこれは。
「孝典さん……」
 寝具を彼の肩まで捲ったままなんとなく動けずにいる御堂の手に、彼の手がそっと重なり頬まで運ばれた。
 愛おしげに頬ずりされた肌は、熱があるんじゃないかと思うほどに熱く、御堂はごくりと喉を鳴らした。
 つまりこれは、そういうことだろう。
 御堂がこれまで男性とはそういった経験がないなら戸惑う状況かもしれないが、生憎なんの禁忌もないゆえこれはどう考えても据え膳ではないのか。
 相手が共に仕事をする子会社の部下なのは多少の罪悪感はあるものの、だって夢だ。
 現実世界の彼に特別な感情を抱いてはいなくとも、夢の世界の自分は彼のパートナーであるらしいのだし、だったら恐らくこのあと展開されるであろう流れに乗ってもいいのではないか。夢だから。
 ああいいはずだ。いいだろう。いいんだ。
「孝典さん、なんだかお疲れですね」
「え? ああ……いや」
 言い訳めいた言葉を心の中で繰り返す御堂に、彼が気遣うように優しく言う。
 握り込まれた手に熱い吐息がかかって、体の奥がざわめいた。
「ビオレードの売上が順調なのは嬉しいですけど、人気が出すぎても生産確保が大変で……」
「ビオレード?」
「え?」
「今売っているのはプロトファイバーで……」
 聞いたことのない商品名に、つい話の腰を折ってしまった。
 よく考えれば、夢なのだからそういう設定なのだろうと気付く。
「孝典さん?」
「いや、なんでもない。話の途中ですまない」
 先程から色々と挙動不審であろう御堂を、彼が不思議そうにじっと見つめる。
 ルームランプの灯りに煌めく、海の底のような深い色の瞳は、普段の彼とどこか違う印象で、見つめられると全身の血が熱く沸き立つような感覚がする。
 愛する者を見つめる時、彼はこんな目をするのか。
「ああ、プロトファイバーの時みたいですね」
 ふと何か思い出したようで、長いまつげを揺らして彼がふふっと笑う。
 言葉の意味はよく分からない。ただそれよりも、その揺れたまつげから、微笑みから、目が離せなくなった。
「でもあの時と違って、今回は事前に増産体制を組めましたし、出荷も滞りなく……」
 柔らかそうな唇だ。そう思った時には、御堂はすでに彼に触れていた。
 予想通り、いや予想以上に指先に心地好く、そのまま唇の上を往復して感触を味わう。
「た、かのり、さ……」
 彼の瞳が蕩けたのがよく分かった。
 たったこれだけで、彼はこんな表情をしてしまうのか。
 一見彼はなんとも清潔で爽やかな好青年であるが、ふとした瞬間思わずはっとするほどの色気を醸す表情や仕草をすることがある。
 恐らく彼としては全くの無意識で表れる所作で、自分が他人からそんなふうに見られている自覚はないだろう。
 特に最近どういうわけか、彼の纏う雰囲気に、さらに艶が増したように感じていた。
 恋人でもできたのだろうと思っていたが、プライベートなことだから尋ねてみることもなかった。
 しかし今目の前にいる彼は、艶が増した程度の話ではない。
 色気があるという大まかな表現ではなく、ストレートで些か下種に、いやらしい、淫猥な、という言葉で飾るのが最も適切に思えるほど、匂い立つ色香をたたえている。
「ん……」
 艶めかしい表情に煽られ、唇をなぞる指先を軽く押し込むと、そうするのが当たり前のように口を開けて舌を絡めてくる。
 差し入れた二本の指を、彼は音を立てて夢中で愛撫する。
「ふ、ん、んう」
 上顎を掻いてやると、びくりと震えて吐息を漏らす。やはりずいぶん敏感だ。
 両肘を付いて僅かに起き上がり、彼は御堂の指に必死で奉仕を繰り返す。
 白い肌はすでに朱に染まり、潤んだ瞳は欲に蕩け、目に見える彼の全てが扇情的だ。
 ある種の行為を思い起こさせる戯れと、彼の卑猥な様相に、下半身が重く疼く。
「ふ……孝典さん……」
 この場に辿り着いてから、彼は何度御堂の名を呼んだのだろう。縋るような、媚びるような、甘い響きはただひたすらに心地好く、御堂の胸の奥をあたたかく満たす。
 満たされた胸の内から、今まで感じたことのない不思議な感情が湧いて、もう片方の手で自然と彼の頭を撫でていた。嬉しそうに目を細めた彼を見て、その感情が愛しさであると分かった。
 自分が誰かを愛することなど考えられない。つい先程まではそう思っていたのに、御堂を優しく見つめる彼に、愛しさが溢れて止まらない。
 気に入ってはいるが特別な感情はない一部下だった彼に、ほんの一瞬で恋に落ちてしまった。
 愛のなんたるかなど想像もつかなかったが、きっと複雑で難しいものだと思い込んでいた。
 それがこんなに簡単に、あっけなく出会える単純なものだったなんて。
「孝典さん」
 また彼が御堂を呼ぶ。名を呼ばれただけなのに、背筋が痺れて眩暈を覚える。
「孝典さん、もうこんなに……」
 そう言って、彼は御堂のほうに身を乗り出す。そこでやっと気付いた。すでに遠い昔のようにすら思えるあの暗闇を歩いていた時には確かにスーツを着ていたのに、今はバスローブ一枚しか身に付けていなかった。
 そういえば、僅かに汗をかいていたはずの体は、まさしくシャワーを浴びたあとのようにさっぱりしている。もちろんシャワーを浴びた覚えなどないにも関わらず。
 驚きと疑問に一瞬支配されかけたが、バスローブの紐をほどく彼の仕草に、そんなことはどうでもよくなった。
 バスローブのタオル地をはっきりと押し上げていた御堂の雄身が、彼によって露わにされる。
 堂々と曝け出された力強く天を衝くペニスを、彼はうっとりと見つめてのひらで包む。いやらしい表情と、そっと触れた粘膜への刺激が、貫禄を見せつけるペニスにさらに力を与える。
「ん……」
「っ」
 何度か緩く幹を扱かれてから、張り詰めた先端が彼の口内へと含まれる。
 御堂の弱点を熟知した巧みな奉仕は、彼が御堂への施しに慣れきっていることを伝える。
 言わば幻のこの彼は、自分ではない夢の世界の御堂に何度抱かれたのだろう。
 この夢を作り出したのは自分自身だというのに、なぜかふとそんなおかしなことが頭を過ぎった。
「ん、んむ、んんっ」
 柔らかな彼の髪を掴み、腰を突き入れ喉奥を突いても、彼はいやがりもせず、むしろもっととねだる瞳で見上げてくる。
 健気な様に、次から次へと愛しさが溢れていっそ苦しい。
「くっ……」
 彼の技巧が御堂を追い詰める。
 上目で見つめながらじっくりと責められ、耐え切れぬ射精感が襲う。
 愛しいこの男に、己の欲望を飲み込ませてやりたい。
「っ、出すぞ」
「ん、ん、ん」
 御堂の腰にしがみ付いて、懸命に頭を上下させる彼がかわいい。
 頭を撫で、優しく笑ってやると、御堂のペニスを口いっぱいに銜えたまま、彼も清楚な笑みを返した。
「うっ……」
「んっ……んー」
 彼の口内が射出する欲に汚されていく感触に、雄の支配欲が満たされる。
 長く舌の上で吐き出されたそれを全て飲み下して、言われるまでもなく残滓も吸い出し、いつまで経っても萎えきらないペニスをさらに暫し味わってから、彼がようやく唇を離す。
 物足りなさげにぺろりと唇を舐めた赤い舌に、解放されたはずの欲望が散る間もなく戻ってくる。
「孝典さんっ……」
 切ない声に応え、バスローブを落としベッドに乗り上げ、彼の体に覆い被さる。
 胸元までしか晒されていなかった彼は、寝具を完全に剥ぎ取ってみれば、下肢にも一切の着衣を纏っていないのが明らかになった。
「ん、ふう、んんっ、んあっ」
 激しく唇を合わせ、滑らかな肌をまさぐる。御堂よりだいぶ体温の高い肌は、触れる御堂の肌を悦び離すまいと吸い付いてくる。
 彼の舌に、射出した粘液の濃さを感じるが、そんなことは気にならない。
 絡み合ううちに混じって消えた苦味の代わりに、甘い彼の味が舌に絡まり、御堂は無心でそれを貪る。
「孝典、あっ、孝典、さ」
 我慢を知らない性欲旺盛な若者のような激しさで、心地好い肌を巡る。
 敏感だと思った通り、どこに触れても彼は体を大きく跳ねさせ、そのたびに御堂の名を呼ぶ。それがたまらなくかわいらしい。
 ぷくりと尖る乳首を苛むと、彼はかわいい悲鳴を上げた。
「あ、あっ、気持ちいい、孝典さん、気持ちいい」
「気持ちいいか?」
「ん、ん、気持ちいい」
 もつれた口調のかわいさに、無意識に唇の端が上がった御堂の目に、彼の肌の上に点々と残る紅い跡が映った。
 私ではない私が、彼に付けた跡。
 理不尽な嫉妬心が湧く。いくらリアルな夢とはいえ、ここまで細かく設定されていなくてもいいのではないか?
 誰に付けられたと彼を責めるのはそれこそ理不尽極まりないし、発散しようがない苛立ちを、上書きするように全ての跡をなぞることでなんとか鎮めた。
「だめ、も、だめ、孝典さんっ。お願い……!」
 彼がしてくれたように、御堂も彼の猛るペニスにむしゃぶりつき、絶妙な感触の尻房を揉みしだいていると、悲痛にも聞こえる懇願を彼が叫ぶ。
 何を求めているのかはよく分かっている。だがあっさりと与えてやるのは、嫉妬心を味わわされた思いもあって、なんだか癪だと思ってしまう。
「何が欲しいんだ?」
 発した声は、思いの外冷たい響きを持っていた。
 愛しくてたまらない彼に、こんな冷たい声をぶつけられるとは。
 だが戸惑いはない。媚びる目を向ける彼にはこうして冷たく言ってやるのが最良で、紛れもない愛情表現であるからだ。
「そんなこと……」
「なんだ? 何が欲しいか、言わなくては分からない」
「っ、たかのり、さんっ」
 冷笑して組み敷いた彼を見下ろすと、濡れた瞳がおずおずと見上げてくる。
 自分には、サディスティックな面があることは自覚していた。しかしそれは、二分するとしたらそちら側に分類されるだろうという程度で、人を蔑んで快感を得たり、積極的に苛んで楽しむといった嗜好は持ち合わせてはいなかったはずだ。
 それがどうか。滴に揺れる瞳。震える声。白く滑らかな熱い肌。目の前にいる彼の存在そのものが、御堂の中に潜む黒い欲をどうしようもなく掻き立てる。
「どうしてほしいんだ? 克哉」
 そう呼ぶのが常のように、彼の名がするりと口から零れた。彼をファーストネームで呼んだことなど一度もないのに。
 口を衝いて出た彼の名は、音にするだけで切なく、どんな言の葉よりも美しく響いた。
「孝典さん、孝典さん」
 名を呼んだことにも感じたのか、眉を寄せて彼が小さく喘ぐ。
 抱きしめたいと伸ばしてきた腕を、そのまま素直に受け止めてやる。
「孝典さん、孝典、孝典」
 ああ、私の名は、こんなに甘い音色をしていたのか。三十二年の間この名で生きてきたが、彼が初めて教えてくれた。
「たかのり」
「なんだ?」
 そっと頭を撫でて促すと、ぎゅっとしがみついてくる。
「あ、ん、孝典、さんを」
「うん?」
「孝典さんを、オレにください……」
「うん?」
「っ、孝典さんのを、オレの中に……早くっ……!」
 耳元で誘う彼の声に、ある種の恐怖すら感じる。
 抗えないその声は、まるで悪魔の囁きで、御堂を狂わせ闇の底へと引き摺り込んで地に堕とす。
 彼に狂わされるなら、彼と堕ちていくなら、そこが地獄の果てでも構わない。
 もっともっといやらしく誘い私を惑わせ、二度とこの世には戻れない場所まで連れて行け。
「欲しいか」
 これ以上なく優しく、だが獰猛に笑い彼の頬を撫でる。
「欲しい、孝典さんが欲しいっ」
「ならば、きちんと自分で、私を迎える準備をしろ」
「あっ!」
 大きく脚を開いた中心、露を零す屹立をなぞり、たっぷりと重く凝る陰嚢を弾いて、その下の蕾を擦ると、彼は顎を上げ大きく喘いで、がくがくと震えた。
「やだ、いいから、いいから早く」
「駄目だ。私にきつい思いをさせる気か?」
「あっ……」
 彼への気遣いからではなく、微塵も苦痛を与えられたくないからだと示すと、彼は目を見開いて御堂を見つめる。
「分かったな?」
「……はい」
 顎をきつく捕らえ、鼻先を付け返事を促すと、荒く息をつく彼が素直に頷く。
 いい返事ができた褒美に唇を啄んでやり、サイドチェストに手を伸ばす。
 慣れた手付きで引き出しから潤滑液を取り出したところで、ふと、こんなところにこんなものを入れた覚えもないのに、自分はなぜこれがここに入っていることが分かったのだと思う。
 サイドチェストの引き出しにローションのボトルが入っていて、知るはずのないそれを自然に取り出した。
 そうだ、これは夢だったんだと一瞬頭が冷え、では夢が覚めたら、この彼とも二度と会えないのかと心の中で呟くと、背筋が凍る思いがした。
 愛しくてどうしようもない、すっかり狂わされた彼に、目が覚めればもう二度と会えない。
 佐伯克哉には会える。だがそれは御堂とビジネス上の関係しかない一部下の佐伯克哉で、今目の前で淫猥に御堂を求める彼とは違う。
 だから彼とはもう、二度と。
「孝典、さん?」
 呆然とする御堂を、息も絶え絶えに彼が呼ぶ。
 この甘い声も、ときめく響きも、金輪際聞けないのか。
「克哉」
 くちづけ名を呼ぶ。こうして名前を呼ぶことも、もうないだろう。
「克哉、克哉、克哉」
 突然名を連呼され、繰り返しくちづけられ、彼は幾分戸惑っているように見えた。しかし拒否するでもなく、じっとされるがままになる彼に、やはり愛しさが湧いて胸が詰まる。
 目覚めても、この夢のことを覚えているだろうか。目が覚めた瞬間、直前まで見ていた夢をすっかり忘れることはある。それならいい。そうであってほしい。
 もしこの夢を覚えていたままなら、これからの日々は御堂にとって地獄だ。
 彼になら地獄の果てまで堕とされても構わないと思った。だがそこに彼がいないなら、なんの意味もない。
「さあ、克哉」
 涙が出そうな念を振り払い、彼に向き直る。僅かに憂心を見せる優しい瞳に、にっと笑ってやった。
「いやらしい君を、もっと私に見せろ」
「……はい。見て、孝典さん」
 卑猥な答えを返し、妖艶に微笑む彼に息を呑み、深くくちづけてから彼の正面に身を離す。
 彼は横向きに胎児のように体を丸めると、太いボトルから潤滑液をてのひらにたっぷりと零した。
「ん、あ……」
 双丘の狭間全体に粘液を塗したあと、その中心の蕾に塗り込める。御堂から丸見えのそこは、粘液に濡れて光り、充血した色をさらに美しく際立たせた。
「あ、あ、あっ」
 そっと差し込まれた指先を、彼はさらに奥へと進める。彼自らの指が彼の内襞を犯す様は、この上なく淫らで御堂の全身が粟立つ。
 増やした指で音を立て掻き交ぜ、腰をくねらせながら彼が御堂を見つめる。
 セックスそのものの化身のような彼に、息を乱される。
 足りない。もっと淫らな彼が欲しい。一生目に焼き付く、欲に塗れた彼が。
「孝典さ、孝典さん、もう、もうだめ。ねえ、ここに、お願い」
 根元まで銜えた指を激しく掻き回し、蕩けた瞳でねだる。焦らした御堂も、いい加減限界だ。
「克哉」
 彼の脚を左右に大きく開き、強く抱き合う。聳り立った互いのペニスを擦り付けると、それだけで達してしまいそうになる。
「孝典、早く」
 泣いて懇願する彼にくちづけ、蕩けてひくつく蕾の入り口に自身を宛がった。
「あっ、ああああっ!!」
「うっ……」
 熱い襞が、御堂にきつく絡み付く。思っていたよりはるかに狭い内壁の誘いに我慢ができず、すぐさま激しく抽挿させた。
「あああっ!! 孝典さん、いいっ! もっと、もっとしてっ」
 強すぎる快感に、目の前が白くなる。
 どんなに激しく突き上げても、先端から根元まで彼の襞がねちねちとしつこく丁寧に愛撫してくる。
 こんなに気持ちのいいセックスは、これまで一度たりとも経験したことがない。
 御堂にとってセックスは義務で、手段で、処理だった。
 快感に我を忘れたことなどないし、もっとと貪欲になることもなかった。
 今この腕の中で乱れる彼には、御堂が今まで知らなかった、これからも知ることはないと思っていた全てを与えられている。
 溢れる愛しさ。求める欲。気の遠くなる快楽。鼓動のなかった御堂の感情に、彼が命を吹き込んだといっても過言ではない。
「孝典さん、孝典、好き、好き、大好きっ……!」
「克哉っ」
 紡がれた愛情が、胸に刺さる。
 夢の世界の私が羨ましい。きっとこんなふうに毎夜、毎日、いつでも彼に愛を告げられているのだろう。
 自分で見ている夢なのに、なぜ思い通りにならない。なぜ、彼が愛しているのがこの私ではないんだ。
「あ、あ、ああっ! あ、も、だめ、孝典さん、いく、出ちゃう」
「克哉、私もっ……」
「ん、ん、一緒に、孝典っ」
「克哉っ!」
「んんんっ!!」
 くちづけ、舌を絡ませ、腰を打ち付け掻き回す。強烈な快感に、細胞まで侵されている。
 彼の腕が御堂の首元を引き寄せ、腰を足できつく拘束される。全身でしがみ付かれる幸せを、御堂も同じく彼をきつく抱きしめて返す。
「ん、んう、んっ……んんんんっ!!」
「うっ、んっ……!」
 達した衝撃で一層強く締め付けた彼の粘膜に煽られ、その内部で御堂も達する。
 体が宙に浮く感覚に襲われ、白い世界が目の前を覆う。柔らかくあたたかな世界に、御堂は一瞬意識を奪われた。
 一度彼の口内で放たれているのに、信じられないほど長く続く奔流が、一滴零さず彼の体内に注がれる。
 息苦しさに構わず、達したあとも少しも離れることのない彼の唇と舌を存分に味わう。
 ついまた彼の内に収まったままのペニスに血が集まりかけたところで、ようやくくちづけを解く。
 呼吸を整え、汗で額に張り付く彼の髪を梳いてやって、鼻先が付く距離で見つめ合う。
「孝典さん」
 慈愛に満ちた音色で、彼が呼ぶ。淡い微笑みを乗せた穏やかな表情は、どこか儚く思えるほど美しい。
 彼を闇の底に引き込む悪魔に例えたが、間違いだ。
 彼は天使だった。御堂に愛を与え、白い天上世界へと導く、美しい天使だ。
 御堂を真っ直ぐに見つめる、御堂への愛だけを訴えるひたむきなまなざしに、溢れすぎている愛しさが枯れもせずまた湧き出でてくる。
 愛しい人に名を呼ばれるだけで幸せだ。微笑み合って、触れ合って、見つめるだけで幸せだ。
 愛し愛されることは、こんなにも幸せなことなのか。
 彼がいつも幸せであればいい。夢の世界で夢の世界の私に愛され、何不自由なく、なんの心配もなく、ただ幸せであればいい。
 彼を少しでも悲しませるなら、彼を僅かでも不幸にするなら、私は夢の世界の私を許さない。
 彼に幸せを与え、彼に幸せを与えられるのが私であるように。
 彼がいつまでも、幸せであるように。
 心の中で強く祈ると、不意に意識が遠のき始めた。
 ──ああ、目覚めてしまう。
 そう悟った。
 彼に会うことはもう二度とない。彼から与えることも、彼に注ぐこともない。
 ただ代わりに、夢の世界の私が、彼から与えられ、彼に注ぐだろう。
 それでいい。
 君が幸せでいてくれるなら、私はそれだけで幸せだ。
 他人の幸せが自分の幸せなど、ほんの数時間前の御堂が聞けば、くだらないと吐き捨てていた。
 ほんの数時間。僅かの間に、彼が御堂に与え、教えてくれた。
 ありがとう。夢とはいえ、君と出会えてよかった。
 克哉。私は君を、心から愛している。
 意識が消える直前、心の中で囁いた言葉が、彼に聞こえるはずがない。
 それなのに、霞む視界の中、蕩ける笑みを浮かべた彼が嬉しそうに返した言葉を、夢から覚めてもきっと忘れないと思った。
「オレも、あなたを心から愛しています。孝典さん」
 どうか、どうか、彼が永遠に幸せであるように。



「お客様。お客様」
「ん……」
 静かな声が、闇から御堂を覚醒させる。ひとつ呻いて、ゆっくりとまぶたを上げた。
「大丈夫ですか? お客様」
「……ここは……」
 突っ伏していた身を起こし、まだはっきりとしない頭を緩く振り辺りを見渡すも、そこは全く覚えがない場所で御堂はわずかに狼狽えた。
 やたらに照明が暗いためよくは見えないが、どうやらだいぶ年季の入ったバーにいるらしい。
 客は御堂一人だけのようで、音楽もないせいか、古びた内装の狭い店内は落ち着かないほどの静寂に包まれている。
 いつの間にこんなところに入ったのか。妙に上機嫌で会社を出て、とりあえず一旦自宅へ戻ろうとしたのは覚えている。だが服はスーツのままだから、退社してそのまま街をぶらついたのだろうか。いくら記憶を辿っても、何も思い出せない。
「失礼ながら、ずいぶんとハイペースでお飲みのご様子でしたが、何かいやなことでも、いいえ、よいことでもありましたか?」
 ハイペースで飲んだ。やはりなんの記憶もない。いくら上機嫌だったとはいえ、記憶がなくなるほど無分別に飲むなど、およそ御堂らしからぬことだ。
「当店自慢の一品をお気に召していただけたようで、何よりでございます」
 御堂がなんの言葉も返さないのも構わず、店員は話し続ける。ちらりと目線を向けてみたが、暗がりと、店員の片頬を覆う金色の長髪のせいで、顔がよく分からない。金髪からして外国人だろうか。顔だけでなく姿形もどこか不明瞭なのに、眼鏡をかけていることだけはなぜかはっきりと確認できた。
「この果実酒は鮮やかで繊細な美しい色合いに反して、だいぶアルコールが強いものですので、普段お強いかたでもほんのわずかで心地の好い微醺を味わえると、大変ご好評をいただいております」
 そういえば、今日は趣向を変えて蒸留酒でもと思った気がする。しかし手元に置かれたロックグラスはすっかり空で、どんな酒だったのか窺い知ることもできない。
「何の果実酒だ」
 御堂が初めて返した言葉に、店員は恭しく頭を下げる。
「はい。柘榴でございます」
「柘榴?」
「はい。この店一番のものをとのご注文でしたので、当店随一の極上品をお出ししました」
 柘榴酒。初めて口にしたのではないか。よほど信頼している馴染みの店ならともかく、初めての店で人任せなオーダーをするなどありえない。普段、口にするものなら特に、選りすぐりの品をさらに自らよく見極めた上でオーダーするのが御堂のポリシーだ。
 浮かれ気分で街へ出て、不用意に得体の知れぬ店に入り、出されるまま初めて口にした酒を酔い潰れるまで飲んだのか。全くなんたる失態だ。
「眠ってしまって悪かった。釣りはいらない。取っておいてくれ」
 言うところの極上品を何杯飲んだのかも分からないが、余りあると思われるだけの枚数をカウンターに出すと、店員が制するように右手を出す。バーテンダーなのに革製らしい手袋をしていて奇妙に思う。
「お代はもういただいておりますので、結構でございます」
「え?」
 そう言われ改めて財布の中を見たものの、今カウンターに出している分も含め、退社前に確認した札の数と変化はない。ではカードで支払ったのかとも思ったが、御堂は初めて入る店ではカードは使わない主義だ。今日のこの調子では、その主義も崩れているなら別として。
「いや、払っていると言われても」
「いただいておりますので」
 にっこり。御堂の言葉を遮り、闇の中で店員が笑う。途端、御堂の背筋がぶるりと震えた。
 見知らぬ暗闇。目の前にいるのに不明瞭な姿。吊り上った唇から旋律のように響く声。
 ──なんだ、この男は。
 不意に強い不安が御堂の本能を襲う。このままこの場所でこの男と対峙していれば、気が狂ってしまいそうな、何もかもを砕かれ壊されてしまいそうな、言い知れぬ恐怖。
「そうか。それならいいんだ。迷惑をかけた」
 鞄を掴むための振りをして店員から目を逸らし、早口で言って立ち上がる。早鐘を打つ鼓動に眩暈がした。
「迷惑だなんて、とんでもないことでございます。ぜひまたお越しください」
「……ああ」
 二度とくるか。そう思ったものの、当然口には出さない。
 こんなところにこれ以上長居は無用と、暗闇をおぼろげに伝い出口へと向かう。
「大切なかたがお待ちでしょうから、どうぞお帰りはお気を付けて」
「……そんな相手はいない」
 聞き流せばいいものを、背にかかった言葉がやけに気に障り振り返る。
 遠のいた店員の姿は、さらに闇に溶け込んでいてぞっとした。
「おや、それは大変無礼なことを申しました。お客様ほどのかたでしたら、てっきり素敵なかたがいらっしゃるかと」
 大仰な物言いが余計に神経を逆撫でする。
 素敵なかたなど、恋人などこの数年いない。いたとしても、それは恋人という名称の相手なだけで、御堂にとってその存在は、あろうがなかろうが等しいものでしかない。
 恋人など、いてもいなくとも。恋人など。大切な恋人。待っている。君が。
 ──君を。心から。あなたを。心から。
「……っ!」
 なんだ。今、何か。何かが過ぎった。御堂がこれまでの人生の中で知り得なかった、何か、とても大切な何かが。
 なんだろう。大切なことなのに、思い出せない。
「どうかされましたか?」
「っ、いや、なんでもない」
 なんだかどうにもおかしい。早くここから出なくては。
 逸る気持ちで重い木製の扉を開けると、むっとした外の空気が店内へと流れ込んでくる。今年の夏は特に猛暑との予想は出ているが、まだ初夏なのにこの暑さでは真夏にはどれだけ暑くなることか。
 夏は必然的にドリンクの消費が増える。好調に売上を伸ばすプロトファイバーを、ただの一過性のヒット商品にするのではなく、定番商品として市場に定着させるにはこの夏が勝負どころだ。暑さにうんざりしている暇はない。
「彼らにも、より力を入れてもらわねば」
 思いが自然と口を衝く。次のプロジェクトも動いているから、併せてなかなか大変な思いをさせるだろう。
 そうだ、景気づけに食事にでも連れて行こうか。
 見るからに体力があり余っているあの男には必要ないからいいとして、彼にはうまいものをたっぷり食べて、しっかりと精を付けてほしい。
 確か彼は海産物が好きだったはずだ。……寿司か。寿司だな。そうだ、彼を寿司に連れて行こう。もちろん選りすぐりの高級店へ。
 なぜだろう。彼を思うと心が弾む。あれほど妙な不安に襲われていたのに、もう影も形もなくなった。代わりに心の中は彼のことでいっぱいだ。
 彼は喜ぶだろうか。嬉しそうに頬張って、おいしいと笑ってくれるだろうか。
 贔屓のワインバーに連れて行ったら、どんな顔をするだろう。こんなにおいしいワイン飲んだことありませんと、笑顔を向けてくれるだろうか。
 彼の、あのかわいらしい笑顔を、私に。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ、─────」
 扉が閉まる直前、闇を揺らした店員の言葉は、彼に思い馳せ胸躍らせる御堂の耳には届きはしなかった。









「克哉」
「ん……」
「克哉」
「ん……たかのり、さん」
「全く君は」
「あ……ごめんなさい。オレ寝ちゃって……」
「いや、私こそ、待たせてすまない」
「そんな」
「……克哉」
「んっ」
「ん」
「んんっ……はぁ、孝典さん……」
「寝言」
「え?」
「寝言を言っていたぞ」
「ほんとですか? どんな?」
「ふ。私の名前を呼んでいた」
「えっ。あ、そ、そう、ですか……」
「家でも会社でも一緒にいるのに、さらに夢の中でも私と一緒にいたいのか?」
「……っ、そんな、からかわないでください……」
「からかってなどいない。聞いているだけだ」
「……」
「ん?」
「……いたい、です」
「ふ。それでいい」
「んっ」
「ん、ん」
「んんんっ、ふあ……あ、あっ、孝典、さ…………はっ!!!」
「……ほーお?」
「あっ、え? え、あっ」
「これはこれは。夢の中の私と、ずいぶん楽しいことをしていたようだな?」
「え、いや、あの、え、あの」
「ほら、はしたなくこんなに出して」
「あっ、やっ! そ、そんな、見せないでっ……」
「ふん。そんないやらしい声を、夢の中の私にも聞かせたのか。この淫乱め」
「あの、いや、あの、た、孝典さん? それってすごく、理不尽な気が……」
「なんだ?」
「いえ、あの、その」
「さあ、夢の中の私と、一体どんなことをしたのか。詳しく再現してもらおうじゃないか、克哉」
「あっ、あっ! あああっ!! そこ、そこだめぇ! たかのりぃっ!!」



 ∞あとがき∞ 
2013.05.06