マイ・リトル・プリンス □
間取りが若干オリジナル



 目が覚めると、隣にいるはずの克哉がいなかった。
 いないというのは語弊があるかもしれない。決して彼はどこかに行ってしまった訳ではなく、ただ単に私より先に目覚め、恐らくは今頃朝食の準備でもしているのだろう。
 しかし時計を見るともう十一時を回っていて、朝食の準備ではなく別な家事をこなしているかもしくは読書でもしているだろうか。
 最近は新規プロジェクトの立ち上げで互いにずっと忙しく、まともに休みも取れていなかった。いざ動き始めてしまえばそれまでの苦労の甲斐あって円滑に進んではいったが、プロジェクトの責任者である私は心理的には息つく暇もない。
 それでも、私を一番側で完璧にサポートして自身も相当に疲労が溜まっているはずなのに、そんなことはおくびにも出さずいつも私を気遣い穏やかな笑顔を向けていてくれた彼のおかげで、さほどストレスは感じていなかった。
 その忙しさもなんとか先週末で落ち着いて、昨日は久しぶりにゆっくりとした休日を過ごした。
 日中は存分に彼を甘やかして彼に甘えて、夜は忙しさのせいでずっと軽めの食事にしていたからと、彼がはりきって腕を振るってくれた。
 贔屓にしている近所のパン屋の二種類のバゲットに、海老とアボカドのオードブル、旬野菜がたっぷり入ったトマトベースのスープ、真鯛のポワレ、メインは克哉特製のオニオンソースをかけた厚切りの牛フィレ肉のステーキと、期待以上の豪華な食卓に大満足した。
 メインに合わせちょうど飲み頃だったシャトー・マルゴーを開け、カマンベールチーズとのマリアージュを楽しみ、最後には彼自身をたっぷりと味わった。
 あまりにも幸福で充実した休日に一気に気が抜けたのか、いくら夜が明け始めようかという時間まで互いを貪り合っていたとはいえ、彼が目覚めたのにも気付かずこんな時間まで眠ってしまっていたなんて。
 以前の私なら、多忙であろうが閑暇であろうがいつでも気は張り詰めいていて、仕事が一段落したあとの休日だからついだらだらと昼間まで寝てしまった、などということは絶対に有り得なかった。
 彼と出会い共に生活する内に、私はだらけるということを覚えた気がする。
 あまりいい表現ではないが、愛しい恋人に全てを委ね何もせず何も考えない時間は、案外仕事に対する活力になるものだということをこの年になってやっと気付いた。
 仕事でもプライベートでも恋人に甘え切った日々を送っているなど、彼に出会う前の私が知ったら衝撃のあまり寝込んでしまうかもしれない。
 私のこれまでを180度変え、物事を考え捉える時にはいつもその中心にいる私の克哉。
 こんなに愛しい存在に出会え共に人生を歩めるなんて、私に生を与えてくれた両親、彼のご両親、先祖代々に至るまで心から感謝をしたい。

 そんな、彼が如何に愛おしく素晴らしい存在であるかに思いを馳せていたら、目覚めてから三十分近くが経過していた。
 そういった時間の過ごし方も嫌いではないが、想像の中の克哉より生身の彼に早く会いたい。その気持ちのほうが強く、ベッドを降り閉められたままのカーテンを開けると、すっかり太陽に支配された世界が目に眩しく映る。
 彼と揃いのパジャマからラフな部屋着に着替え、サニタリーへ向かう。
 もしかしたらちょうど洗濯をしているかもしれないと思ったが、寝ている私に気を遣ってか、今日はまだ洗濯機を回していないらしい。
 寝室とサニタリーは近いが、洗濯機の作動音が大きく聞こえるわけではないのに、僅かでも私の眠りを妨げないようにとしている彼の気遣いが沁みる。
 顔を洗い軽く身なりを整えてから、気持ち早足で廊下を抜け彼がいるはずのリビングの扉を開けた。

「あ、おはようございます、孝典さん」
 私の姿を見止め、ソファでコーヒーを飲んでいた克哉が、ふにゃりと笑む。
 目覚めてから空想の中にいたその柔かな笑顔をやっと現実に認識し、無意識にほっと息をつく。
「おはよう、克哉」
 私も微笑み返し、立ち上がろうとした克哉を目で制して、彼の隣に座りその体を抱きしめ数度触れるだけのキスをする。
「起こしてくれてもよかったのに」
 抱き合い見つめ合ったまま囁くと、克哉が笑みを深くする。
「孝典さんよく寝てたから。それに、オレも目が覚めたのは十時過ぎだったんです」
「そうなのか?」
「はい。昨日久しぶりにゆっくり過ごしたせいか、気が抜けちゃったみたいで」
 先程私が思ったことと同じことを言って、克哉がはにかむ。思考がシンクロしたようで嬉しくて、また何度もくちづける。
「私もだいぶ気が抜けた」
「ずっと大変でしたからね。まだお疲れ残ってるでしょう?」
「いや、昨日十分ゆっくりできたし、君の手料理で精も付いたからな。今からだって仕事ができるくらいだ」
「ほどほどにしてくださいね」
 おどけて言うと、克哉はくすくすと笑い私の髪をあやすように撫でる。
 ただ純粋に愛情を注ぐ無垢な姿に、逆に私の捩れた愛欲が刺激される。
「それに」
 知らず唇の端が歪む。その唇を克哉の耳元にぴったりと寄せ、吐息で囁いてやる。
「なにより、君をあれだけたっぷりと補給したからな。それが一番の精だ」
 日の光りが心地好くリビングに降り注ぐ爽やかな休日の昼間に、昨晩克哉がどれほどいやらしく乱れたかを思い出させるように鼓膜を苛め、唇を離して克哉の顔を見ると、彼は真っ赤になって口元をもごもごさせていた。
「オヤジくさいです……」
「オヤジだ。君より七つも」
「もう」
 開き直ってしれっと言うと、克哉が両腕を突っぱね無理矢理体を離されてしまった。
 せっかく甘い空気に柔らかく包まれていたのに、下品なセクハラ上司に台無しにされて拗ねてしまったようだ。
「怒ったか?」
「……怒りました」
「そうか、悪かった」
「……悪いなんて思ってないでしょう」
「そんなことはない。悪かった、克哉」
 まあもちろん悪いなどこれっぽっちも思っていないが。
 眉間に皺を寄せ唇を尖らせる克哉がかわいくて、僅かに膨らんだ頬を指先でつつきわざとらしく繰り返し許しを請う。
「もう、いいです。お腹、空いてるでしょう。準備しますから」
 しつこく絡む私を引き剥がして、飲みかけになったコーヒーの入ったマグカップを手に、静かに怒りを湛えたまま克哉がキッチンへ向かう。
 かわいい。かわいくて仕方がない。もうすぐ三十路を迎えようという男を、どうしてこんなにかわいく思えるのだろうか。
 それは私が恋に克哉に狂わされているからではなく、単なる事実なのだから仕方がないのかもしれない。
 その無防備なかわいらしさに、しばしば嫉妬心を煽られたとしても。

 独立型のキッチンに入られると、彼の姿が見えなくなるのが気に入らない。
 以前、いっそ対面式のオープンキッチンに改装しようかと言ったら、何言ってるんですかと一蹴されたが、私は結構本気だ。
 恋人がまめまめしく料理をする姿というのはいいものだ。
 今までの相手は、自宅に上げたことはなかったし相手の自宅にも行ったことがなかった。
 だから当然料理をする姿など見たことはないし、そもそも手料理を振る舞う家庭的なタイプとは付き合ったことがない。
 彼は今までの『恋人』と名のついた相手とは何もかもが違う存在で、私の趣向も根こそぎ変えてしまった。
 今となっては彼こそが理想の恋人像であり、私の生涯は彼がいなくては成り立たない。

 ついまた彼の存在意義に高評価を付けることに気を取られてしまっていたので、我に返って私のために朝食──というか昼食──の準備をする克哉を眺めるべくキッチンへ向かう。
「フレンチトーストか」
「はい。オレもまだコーヒー飲んだだけなので、ご一緒します」
「そうか」
 いつもの穏やかな口調で返事をする様子を見ると、どうやらご機嫌は直ったらしい。
 拗ねてはいても、濫りがわしいいたぶりも結局は甘い戯れと同義なのだから、彼がすぐ許してくれることは分かっているし、だからこそそれに甘えてついいじめてしまう私は嫌な恋人だろう。
 それでも彼は変わらずに私を愛してくれる。本当に君はなんとできた恋人か。
 心の底から込み上げる愛おしさを彼に伝えたくて、どうしようもなくなる。
「克哉」
「はい」
「愛している」
「……はい?」
「愛している」
「……は、い。オレも、愛してます。孝典さん」
 唐突な愛の告白に、深い色の瞳をぱちくりさせ戸惑いながらも、頬を僅かに染め同じ気持ちだと応えてくれる。
 ああ、なんて愛おしい。このまま彼の背後に抱きつきこの場所で散々に犯してやりたい。
 しかし昨夜の淫靡な姿を一切感じさせない清潔で清純な目の前の彼は、熱心に食事作りをしていてくれて、それを邪魔しては私の良心もさすがに痛むので、獰猛な欲望は胸の内に強く押し込めておく。
「お待たせしました。いただきましょう」
「運ぼう」
「ありがとうございます」
 ランチプレートとグラスが乗ったトレイを持ち上げると、オレンジジュースのパックを手にした克哉がぽわっと笑って礼を言う。
 その笑顔のいっそ凶暴なまでのかわいらしさに、押し込めた欲望が思わず飛び出しそうになったのを必死で抑え、何でもないふうを装い席に着いた。

 フルーツがたっぷり添えられたフレンチトーストを腹に収め、二人並んで後片付けをした。
 ソファに寄り添って座り、絡めた指に何度もくちづけると、彼がほっと息を吐く。
「今日はどうします? 昨日はずっと家にいたから、どこかに出掛けましょうか?」
「そうだな……どこか行きたい所はあるか?」
「うーん、オレは特には。洗濯もしたいし」
「ああ、私が起きるのを待っていてくれたんだな、ありがとう」
「そんな」
 額にちゅっとくちづけると、甘えて首元に頭を預けてくる。
 薄茶の柔かな髪を撫で梳き、肩を抱き寄せる。
「行きたい所がないなら、無理に出ることもないだろう。買い物は?」
「足りない物はないので、大丈夫です」
「では決まりだ。今日も家に引き篭るとしよう」
「はい」
 不健康な提案を、克哉は嬉しそうに受け入れる。
 そういえば、まだ生活を共にする前、付き合い始めの頃は、なかなか時間の取れない平日のもどかしい空白を埋めるように、週末は同然のごとくこのマンションに篭り、互いを貪り合うだけの濃密で卑猥な休日を過ごしていた。
 今は、どちらかが体調の優れない時や出張などの場合を除きほぼ毎日体を重ねているから、平日よりは多少激しさを増すことはあるかもしれないが、週末だからといって家に篭りきりで精も根も尽き果てるほどに抱き合うことはあまりなくなった。
 あの頃は、心が通い合ったとはいえ、始まりがいびつだったせいで互いの体とビジネス上の顔しか知らなかったから、色々と他愛ない話をしてその人となりをより理解したいと思っているのに、いざ克哉を前にすると理性も何もかも芥子粒のごとく吹き飛んで、抱きたくて堪らなくなって餓えた獣のように彼にむしゃぶりつくことしかできなかった。
 いくら激しく何度抱いても決して満足することはなく、燻り続ける情欲の火種は彼のふとした表情や仕草や言葉をきっかけに瞬く間に燃え盛る炎となり、自制を焼き尽くした。
 ──いや、あの頃は、というより、それは今もさして変わりはないのではないか。
 もちろん今では彼の人間性も好きなものも苦手なものも家族構成も誕生日も何もかも熟知しているという点は当時とは異なるが、彼といると情欲が抑えられないということがだ。
 ふと目線を落とすと、すっかりリラックスして私に凭れている克哉は、満足した猫のようにうっとりと目を閉じ、元々上がり気味の口角を更に緩く上げ、私のささくれ立った神経を一瞬で癒してくれるいつもの穏やかで優しい表情をしていた。
 先程押さえ込んだ欲望が、解放の機会を逃さず身の内を食い破る。
 このまま陽だまりの中で彼とゆったりした時間を過ごすのも捨てがたいが、私はあの頃から今までも、そしてこれから先もずっと、何も変わらないのだから仕方がない。
「克哉」
「はい」
 頬をそっと撫でこちらを向くように促すと、微睡みかけていたのか、目をしばたたいて顔を上げる。
「あ……」
 目が合った瞬間、聡い彼は私の瞳に宿る暗い熱を的確に理解したようで、握っていた指にぎゅっと力が入り、眉を下げ喉をごくりと鳴らした。
「た、かのり、さ……」
「克哉」
 顎を捉え唇を寄せたが、目を見開いた彼が慌てて顔を背けてしまった。
「克哉」
 キスを避けたことを咎める声を出すと、彼は真っ赤になって瞳を潤ませる。
「オレ、あの、洗濯、しなくちゃ」
「あとでいい。夜でいい。しなくていい」
 自分でもよく分からないことを言っていると思う。だがそんなことはどうでもいい。
「克哉」
「……っ」
 頬を両手で包んで、無理矢理こちらを向かせると、なぜ急にその気になったのかという顔で見てくる。
 なぜ?君は私をまだまだ分かっていないようだな。
 私はいつでも君を抱きたいと思っているし、そう思うことに理由なんてない。
 強いて言うのだとしたら、克哉、私は君を気が狂うほどに愛しているから。そんな当たり前のことだ。
「んっ」
 たじろぐ彼を無視して、強引にくちづける。
 繰り返し唇を啄ばんで舌を差し入れ絡めていくと、戸惑っていた克哉にも火がついたようで、押し倒さんばかりに私にしがみついて甘い吐息を漏らす。
 そうだな。君だって何も変わらない。
 普段は無欲恬淡で潔癖なふりをしているくせに、ひとたび快感の波にさらってやれば、誰よりも貪欲で、浅ましい、淫らな本性を恥ずかしげもなく晒す、いやらしい男だ。
 せっかく昔を思い出したことだし、今日は久しぶりに君の大好きなあれを使おうか。それともあのプレイのほうがいいか?
 休日にこんなに思考を働かせ、体を酷使させるなんて、君は酷い恋人だな。
 淫乱な君を満足させるには、全く骨が折れる。
 濃艶で清楚でいつまでもかわいい私の克哉に食い尽くされる幸福な時を過ごすべく、無心で唇を貪っている彼をソファに優しく押し倒した。
2012.05.04