マニア △
克哉=ノマ、<克哉>=眼鏡
克克におけるMr.Rの立ち位置




 最寄駅から大通りに出た途端、嫌な予感がした。
 この手の予感は、結果的にほらねやっぱりということが常で、外れたことはない。
 しかしながらそれは大概いつも突発的だから、予感がするだけまだいいのかもしれない。
 マンションのエントランスに入ると予感は確信に変わり、振り返りエントランスを出てどこかに身を潜めたいと無駄なことを思うが、きっとどこにいても見つけられるし、結局帰る所は実家かこのマンションしかないわけで、渋々エレベーターに乗り八階に上がり我が家の玄関前に立つ。
(気配は……ないかな? いや、元から気配なんてないか)
 また無駄なことを思ってしまったと溜息を吐いて、腹を括ってドアを開けた。
 中からはもう何度嗅いだか分からないお馴染みとなった濃厚な香りが溢れてきて、あーあ、という気分にさせられる。
 半身も同じ気持ちだろうと、同意を求めたくて愚痴りたくて、さっさとドアを閉める。
「ただいまー……なあ、」
「ただいま。安心しろ。俺が呼んだ」
「えっ?」
 克哉の言葉を遮った背後の<克哉>が、きょとんとする克哉を追い越して先に廊下を早足で抜けてリビングに入っていってしまった。
「お前が呼んだって、まさか」
 思い当たることがあって、追いかけてリビングに入ると、<克哉>はダイニングテーブルの前で何かを手に持ち眺めてにやけていた。
「あー、やっぱりまた」
「またって言うな」
「まただろー? 何本目だよ」
 <克哉>が手にしているのは、スクエア型で黒縁のアンダーリムの眼鏡だ。
 克哉が予感していた、金髪に黒衣で眼鏡の男Mr.Rの来訪は、<克哉>にこの眼鏡を届けるためだったようだ。
 <克哉>はこうして、たまにMr.Rに新しい眼鏡を届けさせることがある。
 新しい眼鏡と言っても、別に今掛けている眼鏡が壊れたからなどではなくて、違うデザインがいい、この色のものがあれば、という単なる我が儘にしか過ぎない。
 それでもあの男は喜々として贅沢王子の駄々を聞き入れ、律儀にお届けに上がる。
「今日はいないのか」
「置いたらさっさと帰れと念を押したからな」
「持ってこさせておいてひどい……」
「ふん。いたほうがよかったのか?」
「そういうわけじゃ……」
 前回きた時は、帰ってきたらソファーに悠々と座るMr.Rがいて、おかえりなさいと言われ身の毛が弥立った。
 眼鏡を渡してもなかなか帰ろうとせず、もう帰ってください、おやおや、佐伯さんがそんなつれない方だったとは、帰れ、ああ、もっとその氷の如く冷たい瞳で蔑んでください我が王、などくだらないやり取りを散々してようやく追い出してぐったりしたのだった。
「オレの中であの人って、変な眼鏡屋さんって認識になってるんだけど」
「合ってるじゃないか」
「いいのか? それで??」
 人の形をしてはいるが、本当に人間かどうか怪しい何物であるか形容しがたいその存在は、克哉と<克哉>がふたりでいるようになってからは、眼鏡を届けるか柘榴を仕込ませるか何をするでもなくごろごろしにくるかでしか姿を見たことがないせいで、たまにくる迷惑で変な人程度の扱いになっていた。
 普段どこにいるのか分からないし、どうすれば会えるのか分からない。
 なのに<克哉>はいつも克哉の知らぬ間にMr.Rに眼鏡を注文している。
 いつ? どこで? と何度尋ねても、<克哉>にはお前は知る必要ないとつっけんどんにされるし、Mr.Rには佐伯さんが私に会いたいと願ってくださるならいつでも参りますといまいち的を射ない返し方をされる。
 克哉の知らない所でふたりが会っているのが気に入らないが、そうやって拗ねると、なんだヤキモチか? と<克哉>ににやにやされて押し倒されてあれこれされてしまうから、どこでどうやって会っているのかはもう気にしないことにしている。
「これキクチにいた時だったら営業先にウケてたかもな。この前はあの眼鏡で今日はこの眼鏡ですねとか」
 ウォークスルークローゼットに作りつけられた棚に置いた、これもMr.Rが持ってきた収納ケースにずらりと並べられたコレクション達を見て言うと、眼鏡ってあだ名を付けられるのがオチだと<克哉>が鼻で笑う。
 新しく手に入れた眼鏡を恭しく空席に収め、仲間の増えたケース内を眺めてご満悦の表情の<克哉>は、すっかりただの眼鏡マニアだなーと克哉は思う。
 四段重ねのケースの中には色とりどりの、形も様々な眼鏡が何十本とあるが、克哉はやはり。
「いっぱいあるけどさ、オレは、これが一番好き」
 そっと取り出したのは、Mr.Rに初めて渡され全ての始まりとなったシルバーフレームのあの眼鏡。
「思い出とかじゃないけど、これ掛けてると、なんかお前って感じがするし、これがなかったら、オレとお前がこうして一緒にいることはなかっただろうなとか思うとさ」
 両手に乗せた眼鏡に目線を落としたままぽつぽつと呟くと、僅かな沈黙の後、<克哉>が今掛けている眼鏡を外したのが目の端に映る。
「あ」
 そうして克哉の掌の上の眼鏡を素早く奪い取って掛ける。
 初めて対峙した時、恋に堕ちた時、このままずっと一緒にいたいと心から願った時、<克哉>はいつもその一番馴染んだ眼鏡越しに、克哉を見つめていた。
「これが好き?」
 からかうように聞きながら、ブリッジを中指で押し上げる仕草が、かっこいい。
「うん……すき」
「そうか」
「ん」
 克哉の答えに、ケースの中の眼鏡を眺めている時と比べ物にならないほど満足げな表情を浮かべた<克哉>が、克哉の腰と後頭部を引き寄せくちづける。
 お互い目を開けたまま、何度も触れるだけのキスを繰り返す。
 レンズ越しの<克哉>の淡い瞳に射抜かれて、柔らかな唇が心地好くて、何も考えられなくて頭がふわふわする。
 眼鏡を外した<克哉>に直接見つめられればもちろんだが、こうしてレンズを挟んでいたとしても同じく蕩かされるその瞳の熱に、克哉はあっという間に侵される。
「んっ、んっ、んぅ」
 もうたまらなくなって、<克哉>にしがみついて深くくちづける。
「んやっ、あ、<俺>っ」
 喉元に噛み付かれると、硬くて冷たいレンズが顎に当たる。
 熱い吐息と、ひやりとした感触の両方の刺激が腰を痺れさせる。
 掻き毟るように激しくお互いをまさぐって抱きしめ合ったせいで、何度もふたりの体が収納ケースに当たりきちんと揃えられた中の眼鏡が大きく乱れたが、<克哉>はもう克哉しか見ていなくて、ひっきりなしに甘く鳴く克哉は元より<克哉>しか見ていなかった。
2012.04.23