少しの △
克哉はオーバースペック



 どこか肌寒さを感じて、ふと目が覚めた。
 理由はすぐに分かった。いつも背後にある温もりがないから。
 実際に寒いわけじゃない。このベッドを買った時に併せて買っておいた真新しい羽毛布団はふかふかのぬくぬくだから、冷え込みなんてものともしないで快適だけど、心理的にっていうかなんていうか。
 ひとりでいた時より、ふたりでいるようになってからのほうがより寒さを感じるようになった。なんて、誰かが聞けばそれこそ寒い話なんだろうけど。
 にしても、<俺>はどこに行ったんだろう。トイレかな。
 せめて残った体温に触れたくて、<俺>のいたほうに寝返りを打とうとすると、背後から僅かに物音がした。
「ん……<俺>……?」
 なかなか離れないまぶたを無理矢理持ち上げて、振り向いて視線を巡らせた先で、パソコンデスクの前に座る<俺>とおぼろげに目が合った。
「なんだ、起きたのか」
 静かな低い声が、部屋に満ちた冷たい空気を揺さぶって、一瞬にして体に血が巡る。
 良質の羽毛なんかより、オレには<俺>がなによりの温もりだ。って、また寒いことを思ってしまった。
「ど、した……?」
「……新しい企画。浮かんだうちにと思って」
 一瞬の逡巡のあと、常夜灯の暖色の中で白く<俺>を照らすパソコン画面に向き直って呟いた言葉に、ああ、と納得の吐息が漏れた。
 <俺>が、というかオレたちがプロジェクトリーダーを任されていた新製品の、正式な発売日が決まった。
 年明けには長野工場でラインテストの予定で、出張の準備ももう整ってる。
 プロジェクト始動直後はさすがに忙しくて大変だったけど、他のメンバーと企画構築の共有ができてからは、新商品開発でこれだけスムーズに進行するのは珍しいと驚かれるくらい、取り立てて問題もなく最終段階に入った。
 家ではめんどくさいとかお前がやれとか言ってばかりの<俺>だけど、仕事に関してはとにかくまめだ。
 自画自賛とか欲目なんかじゃなく、客観的に見ても<俺>は気配り細やかで頼りがいのあるいいリーダーで、同僚や先輩たちも、熱血漢だと茶化しつつ、年若いリーダーのためにもよりよい製品をと一丸となって尽力してくれた。
 生まれ持ったカリスマ性と言うのは簡単だけど、それを最大限に活かせるように努力を忘れないのも<俺>の魅力のひとつだと改めて実感した。
 ラインテストが終われば、あとは広報部や営業に充てられたキクチとの最終打ち合わせをして、本生産までに細々とできる限りの改良をしたりするだけで、企画開発としてはほとんど手が離れた状態になる。
 順調とはいえしばらく目まぐるしかったから、出張まではゆっくりしたらと周囲に言われて、オレも同じことを言ったのに、<俺>は他のプロジェクトを手伝ったり、既存製品の改良でラボに詰めてたり、残業はしないものの就業時間ぎっちりめいっぱいに働いて、ほんとに佐伯は仕事人間だなと半ば呆れられている。
 オレはオレで、状況的にどうしても<俺>が表に出ることが多くなる中で、久しぶりに体を明け渡されれば嬉しくてつい夢中で仕事に打ち込んで、結局<俺>と同じく、やっぱり佐伯は仕事人間だと呆れられてしまう。
 もちろん誰ひとり、眼鏡のあるなしで佐伯克哉の中身が切り替わるなんて知る由もないから、とにかく佐伯克哉という男はいかなる時でも仕事熱心だと総評される。
 仕事人間。仕事熱心。仕事中毒。
 確かにそう。それでも、オンとオフはきちんと分けてるから、真夜中に起き出して新企画を練るなんてちょっと度が過ぎる。
 <俺>はそういうコントロールが苦手らしい。
 オレの中で同じく時を経てきても、<俺>にはまだ十二歳のままの部分があって、眼鏡を渡され解放された大きすぎる能力を処理しきれなくなるせいじゃないかとオレは勝手に推察してる。
 外で暴走気味になる時はオレに切り替わってバランスを取れるけど、家にいればどうしようもないから、好きにさせておくしかない。
 二進も三進もいかなくなれば、なにもかも放り出してオレに甘えてくるから、別の仕事で発散できてるうちはまだいい。
 そもそも普段の仕事で十分に発散できていれば、暴走もしないんだけど。
 <俺>の横顔を見ながら、<俺>考察をするオレの思考を表現するかのように、キーボードを叩く音が小さく響く。
 会社で仕事中は同じ体で、たまに家に仕事を持ち帰る時は別室で作業するから、仕事中の<俺>の顔を見ることはまずありえない。
 こんなかっこいい顔で仕事してるんだ。
 夢中で、精一杯で、仕事熱心なお前。自分の可能性を、たまに持て余して戸惑うお前。
 ベッドから抜け出して、<俺>のそばに立つ。ひんやりした空気が体に纏わりついてくる。
 見上げる<俺>の頭を撫でてからそっと抱きしめると、強く抱き返してきて胸元に額を擦り付けられた。
「冷えるぞ」
 肩から羽織っていたハーフケットをオレにかけようとしたのを制止して、柔らかな生地でくるみ直してきつく抱きしめる。
 すり寄ってにおいをかいで髪の毛にくちづけて、甘えるように甘やかすように繰り返す。
 大人しくされるままの<俺>が、かわいくて愛しい。
「箇条書するだけだから。すぐ戻る」
「うん……」
 寄せられた唇に唇を合わせる。ちゅっちゅっと二度音を立てて啄ばんで、下唇を軽く舌でなぞって離れていく。
 愛情を隠さない瞳が、オレを穏やかに捕らえる。
 <俺>。きっとお前は、オレと同じことを考えてる。
「……なあ」
「ん?」
「仕事、楽しいな」
「……そうだな」
 仕事は楽しい。やりがいがある。充実してる。
 もうひとりの自分を知る前は、仕事がこんなに楽しいものなんて、思ったこともなかった。
 期待せず、望まず、諦める。オレという自我はそのために生まれたんだから、当たり前かもしれない。
 でも今はもうできない自分を無意識に装う必要はなくなった。
 全て解放され、元の形ではないにしろ本来の自分を取り戻した佐伯克哉に戸惑っているのは、<俺>だけじゃない。
 だからなにかが。なにかが<俺>の、そしてオレの中ですら燻り始めてる。
 なにが。オレも<俺>も、本当は気付いてる。どうすればいいのかも分かってる。だけどそれは今じゃない。
 いつか。だから、それまでは。
「邪魔してごめん。オレ、戻るな」
「……いや、俺も戻る」
「もう、いいのか?」
「ああ。ここまでにしておく」
「そっか」
 パソコンをシャットダウンして、ふたり手を繋いでベッドに戻る。
 ほら、すっかり冷えて、と言って抱きしめた<俺>の温もりが、オレを優しく包み込んだ。
2012.12.16