橋の上 △

 ふと顔を上げると、<俺>が難しい顔をしていた。
 目線の先のテレビの中では、まだ十代前半の幼いアイドルの女の子達が、二階から目薬ということわざが実際にできるかどうか実験している真っ最中で、そんなしかめっ面で見るような内容じゃない。はず。
 別に番組内容が気に食わないとか、他に何か不機嫌になることがあったわけじゃなくて、こいつは気付くといつも眉間にしわを寄せていて、多分もう癖になってるんだろう。
 <俺>が佐伯克哉として表に出ている時も、中にいるオレにもしょっちゅう眉間にしわが寄った感触が伝わってどこか気持ちが悪くて、考えごとしてる時はともかく普段からそんな顔するなと何回も言ってるのに全然直らない。
 最近じゃよく見るとうっすらしわのあとが付き始めていて、前髪で隠れて人の目からはごまかせているとはいえ、同じ体を共有するオレとしては本当にやめてほしい癖のうちのひとつだ。
「なあ、<俺>」
「んー」
 そんなしかめっ面をしてるくせに、意識はどこか上の空みたいで、生返事をした<俺>の横に素早く移動する。
「しわっ!」
「!!」
 眼鏡のブリッジの上で真ん中に寄った眉間の皮膚を人差し指で押し上げると、驚いた<俺>がオレの手首を咄嗟に掴んだ。
「何する」
「しわが寄ってるんだよ、また」
「だからって危ないだろ。何考えてるんだ」
 オレの手首を掴んだ手とは反対の手で、少しずれてしまった眼鏡を直しながらむっすりと言う。
「何回言ったら直るんだよ、その癖」
「うるさい。俺だって好きでしてるんじゃない」
 冷たく言って、手首を乱暴にぺっと放り投げられた。
「あー、ひどーい」
「ひどいのはお前だろう」
 明らかに苛立った<俺>は、さっきよりも深く眉間にしわを刻ませて、傍らにあったリモコンでどうせろくに見てもいなかったテレビを消した。
「なんでそんなしわ寄せるんだよ」
「お前が気に入らないからだ」
「そうじゃなくて」
 また手を伸ばそうとするオレを腕でブロックしながらも、体は離れようとはしないのがちょっと嬉しい。
「最近外で鏡見ると、普通にしてても眉間のとこしわのあとが付いてるんだよ。家の中じゃオレにはしわのあとなんてないし、絶対お前の影響」
 家の中では完全に独立したふたつの体を持つオレ達は、外に出るとそれぞれの体が重なり合うようにしてひとつの体に統合される。
 件のしわのあとは家では<俺>の顔にしかないけど、外に出れば、佐伯克哉のしわとしてオレの顔にも現れる。
「やだよオレ、この歳で頑固親父みたいなしわ付くなんて」
「正確にはお前じゃなくて俺に付いてるんだからいいだろ」
「屁理屈言うな。外に出たらどっちでも一緒だろ」
「しわを気にするなんて女々しい」
「女々しくていいもん」
「もん、って……」
 オレの口調に呆れて、大げさに溜息を吐く。
 相変わらずしわを寄せた表情は、でもなんだかちょっと笑ってるような、苦笑いしてるように見える。
 その顔に、胸が締め付けられる。
 同じ眉間にしわを寄せるんでも、しかめっ面じゃなくて、そんな、全くお前はって顔なら、ちょっと好き、だからまあいいかなとかなんとか……オレって都合いい……。
 言い合ってたはずなのになんだかどきどきしてきて、<俺>のほうを向けなくなってしまう。
 ときめいてるなんて悟られたくなくて、仏頂面して感じ悪いとか、人相悪いとか悪態を吐いてみるけど、多分<俺>には感づかれてる。
 逸らした目線の横で、<俺>がかすかにふっと笑ったのが聞こえた。
「お前にもしわのあと付いてるじゃないか」
 あれ? っていうような声音で言われて、真に受けて顔を上げて、自分の眉間なんて直接は見えるわけないのについ目を上に向けてしまう。
「うそっ。付いてないよ」 
「見せてみろ」
 ぐいっと肩を抱き寄せられて、触れ合ってた体がさらにくっついて、鼻先同士が掠めるくらいに顔を近づけられる。
「ちょっ」
「ああ、気のせいか。あとなんて付いてないな」
 にやにや笑って、オレの眉間をさっきオレがしたみたいに人差し指で押し上げる。
 あ、やばい……。
「だ、だろ? 分かったら、離し、て」
「お前もよく見ろよ。本当に俺の顔に、しわのあとなんて付いてるか?」
「へっ?」
 思わず反射的に、<俺>の眉間に目を寄せる。
 そこにはやっぱり、ほんの少し、これだけ近づかないと分からないくらいにだけど、つるんとした肌を割く二本の縦線がある。
「やっぱ、あるよ、しわ……。今は、薄いけど、そのうち、ふ、深くなって……」
 レンズ越しの<俺>の淡い瞳が、遠慮なくオレを攻撃する。
 溢れる熱をオレに移すみたいにじっと見詰められて、言葉が出なくなって身動きが取れなくなる。
 なんか、こんな神話の怪物いたような。目が合うと石にされるやつ。なんだっけ。
 現実逃避にそんなどうでもいいことを考えようとしても、お構いなしにさらに攻めてくる。
「深くなって?」
「あの、だから、」
「あ」
「ふぇっ?」
 <俺>が急に目を見開いて鋭い声を上げるから、不意を突かれて変な声が出た。
「やっぱりお前もじゃないか」
「な」
「しわ」
 また人差し指でオレの眉間を押す。
 確かに今のオレは、自分では見えないけど、眉根の寄った泣き出しそうな情けない顔をしているはずで、そうなると当然眉間にしわだってできてるだろう。
 だからといって、それとこれとは。
「いや、そういうあれじゃなくて……」
「そういうあれってなんだ」
「いや、いや、あの、」
「あーあ、ほら、あとが付くぞ」
「だ、だって、お前が、」
「俺が?」
「っ!」
 しわの寄った眉間に、ちゅっと吸い付かれてしまった。
 だめだ。これはもう、回避不能。
「全く。俺にはしわ寄せるなって文句言っといて、自分はいいのか」
「そん」
「自分勝手なわがままばかり言う口は、塞いでやらないとな」
「バ、んんっ」
 バカ、バカ、お前ってほんとバカ。屁理屈にもなってないよ。
 <俺>の唇が、オレの唇をしっかり塞いで、当たり前みたいに舌が入ってくる。
 吸いつかれて噛みつかれてまさぐられて、<俺>は今度は目尻にしわを刻ませて、オレはますます眉間にしわを寄せるしかなかった。
2012.05.20