Bonus! □

 俺の半身はケチだ。
 半身曰く、「オレはケチじゃない。将来を考えた倹約家だ」らしい。つまりケチだ。
 そんなケチな半身が、ボーナスは好きな物買おうよと言ってきたのは初夏の頃。
 もちろん上限額は設定されたが、どうせ夏のボーナスも生活用品を細々と買うくらいでほとんど貯蓄と思っていたから、こんなことを言い出すとは予想外だった。
 年俸制である管理職以上を除き、夏冬年二回支給を採るMGNのボーナスは、さすが業績好調の大企業というべきか、支給額業界第一位だの毎度世間に晒され羨望を受ける。
 俺たちにとっては去年の冬のボーナスがMGNに移って初めてのボーナスで、その額に半身は戦慄していたが、俺にしてみれば、MGNにおける佐伯克哉の正当な評価で当然の結果でしかない。
 だがしかし、そんな煌めく冬のボーナスも、親への贈り物と半身の圧力鍋セットと俺のデジタルオーディオプレイヤーにちょっと使われただけで、あとは引っ越しやら俺の散財──とは俺は思っていないが──やらで干からびた預金通帳を健気に潤しただけだった。
 それじゃ日本経済が停滞してしまうと言うと、日本国経済のために佐伯国経済が破綻してもよろしいかと返されて、その眼光の鋭さにさすがの俺も更なる反論は憚られた。
 それがだ。ボーナスは好きな物買おう。なんていい響きだ。好きな物、買おう。
 じゃあ早速と、何か欲しい物をリストアップしようとした段階で、実は今特にこれが欲しいという物はなかったことに気が付いた。
 よく考えてみれば、節制の中でもなんだかんだで最低限の欲しい物は買っていて、改めて何か欲しい物と言われても、案外現状に満足しているんだった。
 駄目と言われれば余計な物でも欲しくなるのに、いいと言われればいや実際買うほどじゃ……となるなんてありがちな話だろう。
 それでもとにかく、せっかくだし何かに金を使おうとなんだか主旨が外れて半ば意地になってふたりで色々と検討した末、ホームシアターを組もうということになった。
 バレーとセックス以外に、休日の過ごし方で多いのは映画鑑賞だ。レンタルしたり買ったり、モノクロのサイレントから特殊効果満載の最新作、半身の好きなホラーやら恋愛もの、果てはアニメまで、一日で何本も消費する時もあるほどなんでも見る。
 ゲームをしたり日曜大工をして過ごすのもそこそこ楽しいが、一本約二時間半身とずっとくっついていられるし、催したらすぐ始められるし、つまり俺たちがふたりでいれば最終的にどこに行き着くかを考えると、テレビを見るという行為が一番都合がいい。
 引っ越した時に(勝手に)新調したテレビは、視聴距離からすれば大きさは必要十分で、これでスピーカーに凝ったらもっと楽しく映画見られるんだろうなと前から何度か話には出ていた。
 ライブDVDもよく見るし、ついでにCDコンポにも繋げたら音楽だってグレードアップで一石二鳥だ。
 仰々しいスピーカーを付けて、余裕があればブルーレイ対応機器なんかも買って、まるで映画館やライブ会場にいるような大迫力の音声に震え、目を見張る美しい映像に陶酔し、愛しいお前とゆったりと休日を過ごす。
 誰もが羨む一流企業在籍二年目の夏のボーナスは、そんな夢のシアターライフを実現するために使われることと相成った。


「これで以上になります。何かありましたらいつでもご連絡くだされば、すぐにお伺いしますので」
「はい、ありがとうございます」
「それでは、失礼いたします」
「暑い中ご苦労様でした」
 労う言葉に微笑んで、ありがとうございましたと丁寧に頭を下げた男が、玄関の扉を閉める。
 穏やかな笑顔、静かだがはっきりとした声音、簡潔で分かりやすい説明、打ち解けつつも節度を保った距離感。
 接客業に従事する全ての人間は、この男を手本としてほしいと思うほど気分のいい応対に、自然と口角が上がってしまう。
「……なあ、早く試してみようよ」
「ん? ああ、そうだな」
「……」
 去った男とは対照的に、扉が閉まると同時に体を分けて背後に現れた半身はこの上なく仏頂面で、俺を置いてさっさとリビングに入って行く。
 拗ねた表情を隠さないその態度に、さっきとは別の角度で口角が上がった。
 ホームシアターを組む、と一口に言っても、そのためのスピーカーだのアンプだのは値段もスペックもピンキリで、いくら調べても結局のところ百聞は一見に如かずならぬ百見は一聞に如かずで、要は体感せねばと次の休日いそいそと電気街へ向かった。
 初めて足を運ぶオーディオ専門店なる店を回って三軒目、そこに運命の出会いはあった。
 店員一押しの組み合わせと掲示されたセットが予算内だったから何気なく試聴した。その瞬間、雷に打たれたかのような強い衝撃に全身が痺れた。
 なんて豊かな音だろう。素晴らしい。これは、素晴らしい。試聴スペースで俺は立ち尽くした。
 最高級と書かれたセットもあった。だがいい音というのは、聞く人間の主観でしかない。いくら高級なオーディオでも、個人の琴線に触れなければただの音だ。
 価格の問題ではなく、俺はとにかくそのセットの音に感銘を受けた。
 念のため眼鏡を外して半身の意見も伺うと、半身も全く同じ感動を覚えていた。
 性格はまるで違う俺たちだが、やはり同一人物と言える部分のひとつが、いわゆる五感に相違がないことだ。
 愛する相手と同じものに触れて、全く同じ感動を得られる。大いなる幸福と言えよう。
 金銭感覚も同じならよかったんだけどなと冷たく刺さる言葉は無視しておいて。
 他にも何軒か回ってみても、やはりその音に勝るものはどこにもなかった。
 念には念をで何日かその店に通い、都度音を確認しても変わらず同じ感動を得られただけだったから、なら迷う必要はなくボーナスが支給されてすぐの休日、いよいよ購入すべくそばにいた店員に声をかけた。その店員が、まさにセットを組んだ本人だった。
 そしてこの店員を、簡単に言えば俺は気に入った。
 一時間に満たない程度のやり取りからも伝わる、高いプロ意識。設置環境を丁寧に聞き取った上で、豊富な知識をひけらかすことなく分かりやすくかみ砕いて説明し、客が望む以上の提案はしない。
 そんな接客の基本中の基本すらなってない店員が、世間には数多といる。特にこんな専門店では、この程度のことも知らないのかと言わんばかりの態度の輩や、一方的に知識をひけらかすだけの奴らの多いこと。専門店だからこそ、初心者への柔軟な応対が必要だと思わないか? ここは貴様ごときがくる場所ではないと弾き出された初心者には専門店はますます敷居の高い場所となり、結局玄人のためだけの店として存在するしかなくなる。客を選別する商売をしてるようじゃ徐々に経営は傾き、今の時代あっという間に倒産して多額の負債を抱え社員は路頭に迷……違う。そんな話はどうでもいい。
 お上りさん状態の俺にも真摯に対応し、和やかな会話の度に好印象ポイントがどんどん加算されていく。感動を与えられたセットを組んだ店員が、こんな気持ちのいい人物だったなんて。さすがだ。何がさすがなのか分からないがさすがだ。
 まあ尤も、より分かりやすく言ってしまえばとどのつまり、声と顔が好みなのが最大の加算ポイントということなんだが。
 お客様の環境でしたらこのセットは最適ですと太鼓判を貰い組み合わせをそのまま買って、配送と設置も頼むと、設置は私が伺いますと店員が言うものだから嬉しくて、危うく家電量販店でブルーレイを買うのを忘れそうになるくらい浮かれ気分で家に帰った。
 そしたら半身が──。

『……なんか、ずいぶん、店員さんと、仲良くなってたな』
『ああ。いい店員だったな。これからも通って話をしたいくらいだ』
『……そんなに気に入ったんだ』
『いい店員だっただろ?』
『……別に。普通じゃない?』
 むすっとそっぽを向く。
 いい人だったなー。そんな反応が返ってくると思っていたのに、なぜか半身は明らかに不機嫌だ。
 早く欲しいとか楽しみだなとかわくわくしてたくせに、帰ってきたらこの態度。
 ただAVアンプとスピーカーとブルーレイを買って帰ってきただけだ。予算内に収まったし、余計な物は買ってないし、CDコンポのスピーカーは下取り五千円で引き取ってもらえるし、機嫌を損ねるような出来事は何もなかったはずだが。
 となるとなるほど、導き出される理由はひとつしかない。
『そんなに妬くな』
『っ! なっ!』
『分かった分かった、通うなんて言わないから。そうだな、普通の店員だったな。だから機嫌を直せ』
『なにっ、なに言ってるんだよっ。オレはっ、別にっ、あの店員さんがっ、別にっ、別にっ、普通だったってっ、言ってるっ、だけでっ』
『うんうん。でも設置にくるのはどうにもできないからな。俺たちの快適なシアターライフのためだぞ。拗ねないで我慢しろよ?』
『なっ、なっ、なっ』
 いい子だからと殊更駄々っ子扱いで頭を撫でると、半身は真っ赤になって瀕死の鯉みたいに口をあくあくさせる。
 まったくかわいいやつめ。他人に関心を持つことが滅多にない俺がちょっと誰かを気に入っただけで、こんなに妬いて、拗ねて。
 ついでに容姿が俺好みだったのも要因になっているらしい。おい気付いたか。あの店員、雰囲気がちょっとお前っぽい。要はそういうことだ。
 俺はお前が某変態部長だの某喫茶店のオレンジ色の犬だのそこらの適当な人間だのを、いい人だよなと能天気に言うたびに、そんな気持ちになってるんだ。少しは分かったか。

 ──そんなわけで。
 お待ちかねのセットが配送され、設置に出向いてきた店員と歓談している間にも、半身は俺の中でやきもきしてるかと思うと、自然とにやけてしまいそうになるのを耐えるのが大変だった。
 もし最初に店員と接したのが半身だったら、確実に半身もこの店員を気に入っていただろうし、となるとやきもきするのは俺のほうだったから、あの時眼鏡を掛けて行ってつくづくよかったと思う。
 妬いて拗ねるのはなぜか俺の常になっているから、たまに半身が妬いて拗ねる姿を見るのは気分がいい。
「はー、これで映画も音楽もいい音で聴けるんだなー。嬉しいなー」
 半身は俺に背を向けたまま、リモコンをいじったりスピーカーを撫でたり過剰にはしゃいでみせる。
「なあ見ろよ。コンポ本体だけになると寂しいなあはは」
 妬いてないし拗ねてないとアピールする様がどうにもかわいくてむずむずする。
 かわいい。俺の半身は、本当にかわいい。
「拗ねるなよ」
 うろうろする背中を抱きしめて、耳元でかっこよく囁いたつもりが、つい声がにやけた。
「拗ねてないって。離せよ、暑苦しい」
 とか言って、声が拗ねてる。かわいい。
 絡まる腕を解こうともがく半身と、よりきつく抱きしめようとする俺の攻防も、ただ楽しいだけでにやけるのが止まらない。にやけすぎて頬が痛い。
 しばらくじたばたといちゃついていたが、ふと半身から抵抗の力が抜ける。こんなことで拗ねるのも馬鹿らしいと思ったのか、ちょっと恥ずかしそうな目線をちらりと寄越してきた。
「俺が愛してるのは、お前だけだぞ?」
「……そんなの、分かってる」
 でも仕方ないだろ妬けたんだからみたいな口調が殺人的にかわいくて死にそうで、思いの丈を唇に乗せて半身の頬に目尻に髪にぶつける。赤い顔でされるがままの半身だったが、しつこく繰り返すうちに迷惑そうな唸り声を上げる。
「あの、もう、いいから」
「俺がよくない」
「うー……」
 かなりの間ちゅっちゅちゅっちゅとして、満腹満足で半身にごろごろと懐く。唸る半身は途中で諦めたらしくひとつ溜め息をついて、はいはいよしよしとか適当に言いながら、抱きしめる俺の腕をぽんぽんと叩いてあやす。
 前はこうしてべったり甘えるのは恥ずかしいと思っていたこともあったが、今となってはどうでもいい。
 プライド? なんだそれは。聞いたこともないな。
「もう拗ねてないか?」
「……うん」
 今度は素直に、拗ねていたと認める。
 ああ。押し倒したい。今すぐこの場で犯したい。
 しかし我慢だ。とりあえず一本くらいは映画を見てもっと雰囲気を作って、それから始めたほうが、絶対最高に気持ちいい。
 俺も成長したな。半身を前にして、待てができるようになったぞ。
「ごめんな、せっかくの日にむすっとして。なんか恥ずかしい」
「俺は嬉しい。もっと妬け」
「……バカ」
 かわいく悪態をつく唇を塞いでやる。うっかり始まらないように軽く触れる程度に留めておいて、見つめ合ってから微笑んで、頬を付けて抱き合う。すりすりと頬を擦ると、半身はくすぐったいよと言って笑った。
 よし、いい雰囲気だ。これで感動の恋愛ものでも見ようものなら、もう映画の途中だろうがなんだろうが半身からおねだりしてきて、それを焦らしてもっとねだらせて、ねえっお願いっ……と涙目でかわいく懇願したところで満を持して押し倒して、それから映画なんてそっちのけでそれはもう昼間っから熱く激しく濃厚になんてああもう最高万歳。
「まず何が見たい?」
「そりゃあこれだろ!」
「……」
 吐息で囁く俺に半身が元気よく示したのは、今日のためにブルーレイ版に買い直した半身お気に入りのゾンビ映画。
 まあな。まずはこれ見たいって、用意してたんだもんな。そりゃな。見るよな。そうだな。そうなんだがな。しかしだな。
 いや。いやいいんだ。いいんだ。この甘い流れでそれを指差すお前が、俺は大好きなんだから。


 数え切れない足音が、背後から迫りくる。必死に逃げるも、右にも左にも集まり、とうとう四方を囲まれる。最早視界に入るのは、目から鼻から血が滴り、体中の肉が以下略の、ゾンビの大群のみ。完全に逃げ場を失った主人公に伸びる、腐敗した腕、顔、腕、顔。闇を切り裂く主人公の絶叫。
「ぎゃー!!」
 と、半身の絶叫。
 前後左右から響く迫力の音声、鮮やかな美しい映像。のゾンビ映画。
 もう何度も見た、多分見た回数で言えば世界一なんじゃないかというほど繰り返し見たこの作品。にも関わらず、隣の半身は、時々今みたいにぎゃーとかひーとか言ってまるで初めて見る作品かのように大興奮している。
 確かに、別作品に感じるほど、音が全然違う。
 真ん中に一個、そのすぐ脇に一個、前と後ろの左右にそれぞれ一個ずつと、いわゆる5.1chサラウンドの音の広がりは、試聴した時よりも豊かな膨らみを持ってリビングを満たし、やはりこれを買って正解だったと大満足させられる。
 古い作品だから、映像的にはブルーレイでもDVDでも大して変わらないんじゃないかという懸念も、冒頭数秒で吹き飛んだ。こんなに違うものなんだな。逆に古い作品だからこそ違うのか? なんて美しい。しかし見ているのはゾンビだ。
 五感に相違はなくとも趣味は違う。俺はゾンビというかホラーものには興味はない。半身が好きだから付き合ってるだけだ。だからホラーを見ている時は、もっぱら半身観察をしている。
 はらはらして呟いて、ほっとして息をつき、驚いて叫び、慄いて呻く。
 魅惑の音響も艶やかな映像も素晴らしくはあるが、半身の存在の前では霞んで消える。
 当然だ。この世の喜びの全ては、半身がいるからこそもたらされるものなんだから。
 ボーナスでいい音を買えた。いい機器を買えた。しかし何よりの収穫は、半身のかわいい嫉妬と、嬉しそうに輝く表情と、一層楽しいふたりの生活を手に入れたことだ。
「もっといろんな映画見て、いろんな音楽を聴くぞ」
 半身の肩を引き寄せ、優しく囁く。ゾンビに夢中の半身だったが、俺の首元にもたれた途端、俺を見つめてとろりと瞳が蕩けた。
 喜びの全ては、半身がいるからこそ。お前だって、それは同じだな?
 嬉しそうに頷いて、かわいく笑んだ半身に微笑みを返して、甘く柔らかな唇にそっと触れた。
2013.12.04