HAPPY BIRTHDAY! ☆
2014.09.30、2014.12.22加筆



 お誕生日のお祝いを次の土曜日にするつもりですが、何か希望はありますかと聞くと、御堂は誕生日? 誰の? というような顔をしたあと、はっとして私のかと呟いた。
 通常業務に加え決算準備もあっていつもに増して多忙の中、おそらくまた忘れているだろうと思いつつ尋ねたのだが、案の定だったようだ。また、というのは、それは今年の話だけではなくほとんど毎年のことであるからだ。
 今年の御堂の誕生日は平日で、必ずしも当日きちんと祝えるかはなんとも言えないところだったから、ちょうど予定もない誕生日の前の週の土曜日に何か企画するつもりでいた。
 恋人同士となってまだ一、二年のうちは、誕生日のお祝いは絶対当日にと意気込んでいたものだが、付き合いも長くなってくると、誕生日当日の予定が完全には立てられないのなら時間的に余裕のある日に祝ったほうがいいなと思えるようになるんだなと、克哉はなんだか感慨深い気がしている。
 しかも本人に面と向かってさらりとリクエストはあるかと聞くなど、誕生日! お祝い! 秘密で! びっくり! 喜んでもらう! など鼻血を出す勢いで興奮していた頃の自分が聞いたら絶叫しそうだ。
 もちろん当日は当日でしっかりとお祝いはするし、一ヶ月ほど前から方々歩き回って厳選したプレゼントのカフリンクスも、渡すのはやはり当日のほうがいい。
 愛しい人がこの世に生を受けた日が、何よりも尊く大切な日であることは、以前も今も少しも変わらない。
 今尋ねたのはあらかじめ開催する言わばお誕生日会の食卓についてであって、御堂もそれは理解しているから、顎に手を当てひと言ふむと発ししばらく思案したのち閃いたように眉を上げ、
「君に全て任せる」
 と言った。
 食事は何がいいかと聞いて一番困る返答が『任せる』なのだとどこかで聞いた気がするが、まさにそうだと克哉はひそかに同意した。
 何もかも全て任せる。豪勢な食事を作ってくれるのも歓迎だし、外食にするのもいい、サプライズを仕掛けるのも一興だし、むしろあえて何もしないというのだって君がそばにいてくれるならそれで十分だ。そう、君に全て、任せる。とは、続けた御堂の弁だ。
 ふむ、と今度は克哉が思案した。
 全て任せる──言い換えればなんでもいい。
 とりあえず御堂が挙げた例を考えてみる。さすがに何もしないという年はなかったが、どれも過去すでに実行されたことだった。
 いや、祝う気持ちに変わりはないのだから、ほぼ例年通り豪華な手料理を作っておめでとうでも別にいいのだが。
「ふむ」
 無意識にもう一度呟いた克哉に、御堂はくすりと笑った。
 誕生日だ。正確には今考えているのは当日のことではないがとにかく誕生日だ。何が一番嬉しいか。
 手料理、外食、サプライズ、そうだなんなら何もしないというのもある意味記憶に残るお祝いになるかもしれない……いやいやしかし誕生日であれば何かしたいのが人の情。
 お誕生日会のメニュー。何がいいだろう。
「……ん?」
 お誕生日会? そうだ、お誕生日会、お誕生日会なのだ。
「これだあああっ!」
「うわっ」
 閃きの衝動のまま拳を握りソファから勢いよく立ち上がった克哉に、隣に座る御堂が驚きの声を上げた。


「うわっ、すごい、おいしそう」
 自分で作った料理なのに、その出来に思わず声が出た。
 御堂の誕生日を数日後に控えた土曜日。お誕生日会を企画したこの日、克哉はまさに『おたんじょうびかい』の用意をしていた。
 子供の頃、母が手作りケーキまで準備をして、友達を呼んで開いたお誕生日会。それを再現しようと閃いたのだ。
 手料理は子供が好むケチャップライスや海老フライにハンバーグ等々、デザートにはメロンとこれは手作りできず無念に買ってきたケーキが控えている。正直言って、三十代最後の年を迎えようとしている御堂と、七つ年下とはいえもう三十路を過ぎている克哉の二人にとっては胃に重いメニューとなったが、今日だけはなんとか頑張ろう。
 台形に形作ったケチャップライスには、爪楊枝に紙を巻き付けたお手製日の丸旗まで立てて、ひと皿が三つに分かれたランチプレートに他のメニューと少量ずつ盛り付ければ、どこからどう見ても完璧なお子様ランチの完成だ。
 誕生日とお子様ランチは無関係な気がするが、このメニューだったらなんならお子様ランチにしたら楽しいじゃないかという短絡的な考えからのお仕立てだ。
「あ、孝典さんって、コーラ飲んだことあるのかな……」
 もちろん飲み物だってワインやシャンパンではない。コーラとオレンジジュースを用意したが、そういえば御堂がコーラなど飲んでいるのを見たことがないと今気付いた。今日が人生初コーラというのはいくらなんでもないだろうが、しかしもしかしたらとの可能性が無きにしもあらずなのが御堂孝典だ。
 長い付き合いで生活も共にしていても、未知なる部分がまだまだ多分にあるのはお互いに言えることでもある。
 そもそもこういうザ! お子様ランチ! だって食べたことがないかもしれない。
 それを言ったらこんなザ! おたんじょうびかい! の経験もないかもしれない。
 いいおうちの子供の頃の生活というのは、普通のおうちの克哉にはいまいち想像できない。
 お誕生日会の開催を閃いてから今日まで、克哉は暇を見てはせっせと準備を始めた。幸い自室を与えられているから、御堂には企画内容を知られず存分に用意することができた。
 ただし何かしら誕生日の準備をしていることだけは当然御堂も知っていて、途中ふざけて克哉の自室を覗くふりをする御堂にだめですよと牽制するのも楽しかった。
 色紙をほそく切って輪っかにして繋げるなんて、小学校以来だ。画用紙を何枚かテープで繋げて、『たかのりくん おたんじょうび おめでとう』とマジックでカラフルに書き絵まで描いた。紙で花を作るのにはそれ専用の紙があるのを今回初めて知った。
 とにかく準備が楽しくて、深夜まで作業にふけってしまうこともありつつ、待ちに待った今日を迎えた。
 壁に紙の鎖の飾りをテープで付けて、画用紙と花も付けた。料理も作って飲み物も万全。どうせならと、子供の頃買ってもらったという話を思い出して、おもちゃではあるがそこそこちゃんとした顕微鏡をおもちゃ屋で買ってきれいに包装もしてもらい、今日のプレゼントとして用意した。
 これで『おともだち』も招待すれば真のお誕生日会の完成となるが、いつものメンバーといえる御堂の友人たちは来週の土曜日に御堂に内緒で誕生日祝いをしてくれることになっている。
 これだけ用意して御堂と二人だけのおたんじょうびかいではなんだか寂しい気もするが、こんなことをしているのを他の人に知られるのは冷静に考えると少し恥ずかしいから、二人きりのちょっぴり寂しい、けれどとびきり楽しいおたんじょうびかいにしようと誓ったのだった。
「よし! あと用意するものはないな!」
 準備万端取りこぼしはないなと仁王立ちでぐるりと辺りを見回して、目に映る光景に満足してうんうんと二度頷く。
 克哉は満足だがしかし、御堂は果たしてこれに喜んでくれるのだろうか。
「いやいや、任せるって言ったのは孝典さんだし」
 自分に言い聞かせる。
 呆れられようがだだ滑りしようがいいじゃないか。
 途中からは目的も忘れただ準備が楽しくなってしまった部分もあるが、ただひたすらに御堂を想い、愛情をたっぷり込めてセッティングしたこの会。
 その想いだけは、御堂に伝わってほしい。
 あなたが生まれたその日その時に、心の底から感謝しているのだと。
「さて、呼びますか」
 クラッカーを二つ手にして、リビングのドアへ向かう。今日は御堂には昼から自室にいてもらっている。きっと、今か今かと克哉が呼ぶのを待っている。
 このおたんじょうびかい会場を見て、まずなんと言うのだろう。
 御堂の表情を想像して、自然と口角が上がった克哉は、リビングのドアをゆっくりと開けた。
「孝典さーん、準備ができましたー」




side:TAKANORI

 お誕生日のお祝い、との克哉の言葉で、御堂は初めて自分の誕生日が近付いていることに気付いた。
 希望と言われても、誕生日など忘れていたくらいなのだから特にない。
 本音を言えば全裸の克哉にリボンを巻いてプレゼントはオレですをやってくれれば御堂としては死んでもいいほど満足なのだが、そんなことを言えばにっこり微笑まれたのちしばらく完全無視されるから口が裂けても言えない。最近の恋人は強いのだ。
 しからばどれどれとこれまでの克哉と過ごした誕生日をざっと振り返ってみると、どの年も克哉の御堂への想いがたっぷり詰まった満ち足りたいい誕生日で、つい顔がにやけてしまいそうになるのを堪え、最終的に全て君に任せると伝えた。
 御堂にしてみれば、例え誕生日など何もなくとも克哉がいてくれればそれでいい。しかも気付くともう三十代も最後になろうとしていて、そんなめでたく祝う年でもない。
 しかし何もなくていいと言えば克哉はしょげてしまう気がしたし、何か企画しようとしている克哉の気持ちは当然嬉しいから、君に任せると言った。してもしなくとも、克哉が御堂を想っていてくれていれば御堂は幸せだ。
 だからそんなに深く悩まなくてもいいのに、任せると言うと克哉はうんうんと考え込んでしまった。
 じゃあまあそれはあとからでも改めて考えてみてくれと声をかけようとした途端、
「これだあああっ!」
 と克哉が野太い絶叫と共に突然がばりと立ち上がったので、御堂は思わずうわっとのけ反った。


 それから克哉はたびたび自室に篭り、誕生日の準備をし始めた。
 多忙な時期と重なり自宅にいる時間すらあまりない中ではあったが、それでも空いた時間があればまめに出入りし作業を続けた。
 何も言わずに自室に篭れば過保護な御堂がいらぬ心配すると克哉はよく分かっているから、誕生日の準備で作業しますとあらかじめ宣言してくれた。
 中でどんな作業が行われているのか検討もつかないが、時に作業に夢中で御堂がほったらかしにされることもあったので、こっそり拗ねていた御堂がいたのを克哉は気付いてはいないだろう。
 御堂のために克哉がしてくれていることに御堂が拗ねるとはいささか不可思議な構図である。己の嫉妬深さにはほとほと呆れる。
 そんなに夢中になるほど克哉はなんの作業をしているのだろう。
「孝典さん、先にお風呂どうぞ」
 今日も今日とて作業続行中の克哉が、リビングの御堂に声をかけた。作業しつつもちゃんと時間を見て風呂を沸かしてくれていたらしい。なんてできた恋人だろう。
「ああ、ありがとう」
 それではと冷蔵庫から飲み物を取る克哉と入れ違いにバスルームに向かう──その前に横切る克哉の自室。
 克哉は今リビングだ。つまりちょっとくらい覗いたって気付かないだろう。いやそんなはしたないことはできない。懸命に準備をしてくれている克哉の気持ちを踏みにじる行為だ。しかし気になる。ちょっとだけなら。一瞬だけなら。一瞬一瞬、ほんの一瞬。
「あっ! 孝典さんっ!」
 ドアノブに手をかけた瞬間、克哉に鋭い声を上げられ体が跳ねた。
 そのままの姿勢で恐る恐る克哉のほうに顔を向けると、愛しい恋人はぷんぷんといった様相で歩み寄ってきた。
 ごまかすために御堂はわざと軽くドアを開け中を見る振りをしてまたすぐ閉めてと繰り返して遊んでいると、克哉は苦笑しながらドアと御堂の前に割って入った。
「覗いてはだめです!」
 わざと厳しい声音で言う克哉に、御堂もわざとむくれたふうな顔を作る。
「なんだ君は鶴か」
 どこぞの恩返しかと問うと、克哉が軽く噴き出した。
「そうですよ。覗いたらオレは鶴になって月に帰っちゃいますからね」
「なんだそれは」
 一瞬あれはそんな話だったかと頷きそうになったがいや違う。月に帰るのは別の話だ。
「ならば仕方ない。もうしばらく我慢しよう」
 笑いながら言うと、同じく笑っていた克哉がふと真面目な顔をして、上目でちろりと見つめてほのかに笑んだ。
「寂しくさせてごめんなさい」
 そう言って、笑んだままの唇を御堂のそれに軽く触れさせた。
 この恋人は、なんてずる賢くなったのだろう。
 まだ自分を出すことに抵抗のあった頃の克哉なら、ごめんなさいと謝って黙ってしまっていたはずだ。謝らせたいわけではないと諭しても、ごめんなさいとただ俯いていたはずだ。
 それが今目の前いるこの克哉は、ごめんなさいと謝る癖はいつまで経っても変わらないが、御堂に気を揉ませないためにそっとご機嫌も取ることを覚えた。勝手に拗ねているのは御堂なのに、言葉で態度でフォローしてうまく丸めてしまう。
 これはずるい。そうされたら、ため息をついて、まったく君は、と言うしかなくなってしまう。
「まったく君は」
 ため息をつきそう言うと、克哉は困ったように微笑んで、御堂の首筋に鼻先を埋めひと息吸い込んだあとに甘えた声で囁いた。
「じゃあ、寂しくさせたお詫びに、お風呂、一緒に入りましょうか……?」
 なんて男だ。もうだめだ。ノックアウト。
 分かった。いくらでも我慢しよう。もし興味本位で克哉の部屋を覗いたら、このいやらしくてたまらない男は鶴になって月へと帰ってしまうのだから。そんなのはいやだ。この男がいなければ御堂は息もできない。
 ならば御堂に喜んでもらおうと一心の恋人に想いを馳せつつ、その時がくるのを静かに待とうではないか。


 ついにきた。
 何もなくてもいいと言いつつ、何かしてくれているならやはり楽しみになるというものだ。
 どんなことをするかは秘密にしているから、ある種サプライズパーティーになるのか。なんだか朝から年甲斐もなくどきどきしていた。
 先程トイレに行こうと部屋を出た時は、リビングから何やらいいにおいが漂ってきていた。どんなメニューになっているんだろう。
 何をしていても落ち着かない。当日でもないのに、こんなにそわそわする誕生日は初めてかもしれない。
 パーティーがあることだけを知らされて内容は知らないというパターンは今までにもあったのに、今回の異常な緊張はなんだろう。
 考えてみると、サプライズパーティーの経験なら克哉と友人たち共同での仕掛けを含めて過去数度あったが、克哉単独の企画立案のサプライズは初めてのせいなのかと思い至った。
 克哉一人が御堂だけを思い克哉一人が実行するサプライズパーティー。なるほどこれならそわそわもわくわくも異常な高まりを見せるのは仕方ない。
「……」
 しかし、と御堂はまたしても考えた。
 克哉単独の企画立案のサプライズパーティー。
 会社での克哉の企画ものは素晴らしい。新製品の企画でも、既存製品改善の企画でも、販促企画でも、彼の持つ才能を存分に発揮し、全てがヒット及び成功を収めている。もしかしたらMGNという大企業でさえ彼の手腕は発揮しきれないのではないかと、実のところ御堂は危惧にも近い思いを抱き始めている。
 しかしそれは会社での、ビジネスでの話。プライベートなパーティーで必要なのはビジネスでの能力よりも個々の持つセンスだ。
 佐伯克哉のプライベートなセンス──。
「……」
 楽しみでわくわく、そんな心情でいっぱいの御堂の胸の奥に、一抹の不安が過ぎる。
「いや、そんな、そんなことなど」
 そんなことなど微々たることだ。プライベートのセンスがなんだ。
 克哉が御堂のために一生懸命用意してくれた。それだけで張り裂けそうじゃないか。
 多忙で疲れているにも関わらず、連日深夜まで作業してくれた。今も一人でせっせと料理を作りパーティー会場をセッティングしてくれているのだ。健気すぎて涙が出そうだ。ありがたい。
 克哉の御堂への想い。それだけで十分。そう、何度も思った。克哉がそばにいて御堂を想ってくれているなら、それだけで。
 ふと脳裏に浮かぶ克哉の柔らかな笑顔。なんて満ち足りる。この子が自分の誕生日パーティーをしてくれるのだ。なんて嬉しい。生まれてきてくれてありがとうと微笑むのだ。それはこちらの台詞なのに。
 不安が落ちた胸の奥がじんわりとあたたまる。その切ないような感覚にきゅっと胸を掴んだと同時、
「孝典さーん、準備ができましたー」
 愛しい愛しい恋人が自分を呼ぶ声がして、御堂ははっと顔を上げた。
 生まれてきてよかったと思えるほどの相手と出会える人生を送れる人間が、現在過去未来の全世界にはどれほどいるのだろう。
 心からそう思える相手と出会えたこの生に感謝をしつつ、想い合う恋人の待つリビングに向かった。


 リビングのドアの磨りガラス越しに、そわそわとする克哉が見える。
 不透明なガラスの先でははっきりとは見えないが、それでも何やら体を揺らし落ち着きなく待ち構えている様子がよく分かる。
 しかしふと、ガラス越しに自分の姿が見えているのではないかと気付いたのか、すすっと数歩滑るようにドアから離れた──のも見えたので、そのかわいらしい行動ににやにやと顔の筋肉が緩む。
 恐らくリビングに入った瞬間クラッカーでも鳴らされるのだろう。そこまでは一応想定できる。さてその後、どんなパーティー会場が待ち受けているのか……。
 にやけ顔を抑えられぬまま、大きく一息ついたあと御堂はリビングのドアを開けた。
「お誕生日おめでとうございます! 孝典さん!」
 一発の鋭い破裂音と共に、真上に勢いよく飛び出した紙吹雪と克哉の満面の笑みが御堂を迎える。
 クラッカーでのお出迎えは予想通りだったが、思った以上に中身の紙テープやら紙吹雪やらが多く降り注いで、御堂は苦笑しながら頭に巻き付くキラキラの紙を振り払う。
「ありがとう、克哉」
「あはは、中身多かったですね」
 克哉の手にあるクラッカーはなるほど案外大きなもので、用意した克哉本人でさえ中身は予想外の量だったらしい。
 しかし不思議なことに、御堂の耳には確かに一発の破裂音のみが聞こえたのだが、克哉の手には大きなクラッカーが二つ握られているのだ。今使った空のクラッカーと、未使用のクラッカーが。
 中身が多かったからもう一つはやめたのだろうか。
 それはともかく、楽しそうに笑って御堂にまとわり付いた紙を払ってくれる克哉がとてつもなくかわいく愛しくて、素早く唇を寄せて軽く抱きしめた。
「ありがとう、克哉」
 見つめてもう一度礼を言うと、克哉はふにゃっと笑んで小さなキスを返してきた。
「こんな序の口でそんなこと言ってちゃだめですよ」
 確かに、まだリビングに入ってきたばかりなのにもう二回も礼を言っている。御堂の心境としては、やることなすこと息をする度克哉に礼を言いたいくらいなのだが、それではなかなか先に進めない。恐らくリビングのドアの前だけで五分以上が経っている。早く会場に行きたい。
「そうだな。では早速、パーティー会場に案内してくれ」
「はいっ!」
 顎をしゃくり高飛車に手を差し出すと、克哉はわざと恭しくひざまずき御堂の手を取りこちらでございます姫などと言い、両眉を軽く上げなぜか口を尖らせた妙な澄まし顔を作って一歩一歩いちいち立ち止まりながら進んでいく。なんだその顔はと指摘すると、克哉はさらにものすごい変顔に進化させてきたから、御堂はやれやれと呆れて笑うしかない。
「目をお瞑りください、姫」
「ふむ」
 パーティー会場になっているらしいダイニングが見える位置までくると、御堂の白馬の王子は深く頭を下げ目を瞑らせて、殊更慎重に御堂を誘導する。
 このわくわく感ときたら。
 目を開けたら、どんな光景が飛び込んでくるのだろうか。もしかしたら友人なども集まっているのだろうか。いやそんな気配はまったくしなかったし、今も克哉の他に人のいる感じはしない。それでは二人きりのパーティーか。
 なんだか、幼い頃の誕生日やクリスマスのプレゼントを開ける時の気分に似ていると思った。今日は誕生日のお祝いなんだから、このわくわく感も克哉からのプレゼントということか。
「はい、このへんかな」
 会場正面に着いたらしい。今分かることは、食卓のいい匂いだけだ。
「じゃあ孝典さん、目を開けてくださーい!」
 克哉の浮かれた掛け声に、ゆっくりと目を開けると──。
「これは……」
 眼前に広がる光景に、御堂は絶句し立ち尽くした。
 という表現は大袈裟だが、思わず息を飲み、唖然と体が固まったのは本当だ。
「おたんじょうびおめでとう! たかのりくん!」
 さっきも聞いた同じ破裂音と、少し違う台詞が、硬直する御堂の脳内に反響する。ああ、もう一つのクラッカーは、今鳴らす用だったのか。やたらと冷静にそんなことを考える頭上に、先程と同じようにきらきらと光る紙吹雪が降ってくる。
 舞い散る紙吹雪に反射する、克哉が設えた祝福の空間。
 真っ先に目に飛び込んできたのは、壁に貼られた『たかのりくん おたんじょうび おめでとう』とカラフルに書かれた横断幕のような大きな紙。その周りには、ハートマークに形取られた紙や色紙の鎖の飾りや色とりどりの紙の花の飾りがこれでもかと貼り付けられている。
 そういえば遥か昔、幼稚園や小学生の時にそんな飾りを作った覚えがある。かすかな記憶を深く辿ると、色紙をほそく切り糊で貼って繋げた感触までもが蘇ってきた。かれこれ三十年以上も前のことなのに、案外覚えているものだ、懐かしい。
 そんな幼少時を思い起こさせる、手作りのパーティー会場。なるほど、克哉はこの作業のために連日自室に篭っていたのか。
 壁を彩るノスタルジックな飾りの数々は、よく一人でこれほど作ったものだと感心する華やかさで、せっせと作業する克哉を想像すると目頭が熱くなってくる。
 カラフルでコミカルなまったく想定外の会場の様子に一瞬呆気に取られてしまったが、徐々に感動が沸いてきた。
「あ、あの、孝典さん」
 しみじみとしていると、背後の克哉が不安げな声で御堂を呼んだ。
「こんな感じなんですけど……どうですか?」
 御堂が黙っているので、気に入ってもらえなかったのだろうかと心配させてしまったようだ。
「素晴らしい会場だ」
 頷き笑んで言うと、克哉はほっと眉を下げ嬉しそうに笑った。
 こんなに楽しい空間を作ったのだから、もっと自慢げにしていてもいいものを。
「作業というのは、あれを作っていたんだな」
「そうです。ほんとはもうちょっと色々切り貼りしたかったんですけど、間に合わなくなったら駄目だし、なんだか中途半端になっちゃいました」
 御堂に降り積もったままになっていた紙吹雪を払いながら、克哉は溜め息をつく。
「十二分だろう」
「いやあ他にも風船っていうかバルーンもありだなってあとから気付いて、でも準備するにはもう遅くて、ああもう詰めが甘いっ」
 忙しい中これだけ作ってくれたんだから、御堂からすれば本当に十二分なのに。
 おっとりした裏で実は案外完璧主義な克哉にとっては、これは時間内で用意できた最低限のラインらしい。
 こだわりが強い性格は、妥協を許さないという長所でもあり、融通がきかないという短所でもあるが、ひっくるめて全部、この恋人の愛しい部分だ。
「近くで見てもいいか?」
「ええ? そんな、見るものでもありませんよ?」
 とんでもない。克哉が精根込めて御堂のために作ってくれたものなのだから、近くでよく見て触れたいではないか。
「よくまあ、これだけ」
「こういう鎖のとか、作ったことありますか?」
「ああ、幼稚園や小学生の時だが。これを見て、そういえば作ったなと思い出していた。あれも確か誕生日とか、そんな行事の準備だったような気がする」
「へーえ、孝典さんでもそんな経験あるんですね」
「……どういう意味だ」
 だってえ、と克哉が甘えた声を出す。
 どうも克哉は、御堂を過剰にハイソサエティな人間だと思っている節がある。子供の頃からものすごいああで、こうで、と桁違いの生活を想像している。
 確かに、裕福か否かで言えば裕福な環境では育ったが、箸より重いものを持ったことがないとか、そんな大それたお坊ちゃまではない。
「私だって紙を切って糊で貼ったことくらいあるんだぞ」
「それは失礼をいたしました」
 拗ねた口調で言うと、ご機嫌取りに肩に頬を乗せすり寄ってきた。
 まったく操縦上手で憎々しい。
「この鎖のやつは上から下げたかったんですけど、高いですから。断念しました」
 克哉が天井を指差す。リビングとダイニングの天井は他の部屋よりも高く、特に開放感がある作りになっている。無理して怪我でもしたら大変だ。妥協を許さぬ克哉ではあるが、ここは諦めてくれてよかった。
 まるで美術品を眺めるように一つ一つじっくりと目に焼き付け、愛しげに撫でていると、御堂の後ろで黙ってしばらく鑑賞に付き合っていた克哉が、ついにもうっと噴き出した。
「飾りはあとでいくらでも見るとして、ほら、料理が冷めちゃいますよ! 座って座って!」
「ああ」
 そうだ、これはあくまで会場の設営であって、パーティーはこれからだ。素晴らしい出来に、すっかり夢中になっていた。
 もうダイニングテーブルの上は目に入っているから、大体のメニューは分かる。オードブルの大皿に盛り付けられたご馳走の数々。
 それと何やら、それぞれの席の前にはすでにプレートに料理が取り分けられているようだ。
 克哉の手料理なんて食べる前から満足が確立されている。だから気になるのはその詳しい内容で、さて今までにないほのぼのとした会場を作った恋人は、今回どんなメニューを提供してくれるのか──。
「お子様ランチ」
 どうぞとご丁寧に克哉が椅子を引き席に着いて改めて見下ろす目の前のプレート上の名称が、このメニューはなんだろうと考えずとも自然に口から音になった。
 それくらい目の前にあるものはお子様ランチ然としたお子様ランチだった。だってケチャップライスに旗まで立ってる。
「小さい頃とか、頼んだことありますか?」
「いや、ない」
 幼少時の外食は、大人とほぼ変わらないメニューのレストランであるとかそういった場所が多かったし、大体にしてお子様ランチがあるような場所に行っても、御堂はそうしたものを食べたがる子供ではなかった。
「そうかー、だったらもっと凝った盛り付けにすればよかったなあ」
「あれだろう、プレートが新幹線だったりするんだろう」
「そうです!」
 頼んだことはないがもちろん知識くらいはある。新幹線や飛行機の形をしたプレートに、今見下ろしているようなメニューが乗っているのだ。
 しかしただ白いシンプルなランチプレートに盛りつけられたこのお子様ランチは、今までテレビや写真やなんかで見たどのお子様ランチよりも遥かに魅力的で食欲をそそり、見ているだけでなんだか楽しい気分にすらなってくる。
 言ってみればただのケチャップライスで揚げ物たちなのに、愛しい恋人が、克哉が作ってくれたというだけで、魔法をかけたようにきらきらと輝き、この世で一番特別な食べ物になるのだ。決して大袈裟ではなく事実として。
「つまり今回は全体的にこういう指向なんですけど、いかがでしょう?」
 賑やかでかわいらしい会場のセッティング、テーブルの上にはお子様ランチ。克哉がいる誕生日をもう何度も迎えたが、今までにない趣向の胸が躍るパーティー。
「大変結構だ。ありがとう、克哉」
 ここまでで何度目の礼か。
 家庭内でのこうした手作りの誕生日会は、子供の頃でも経験はなかったと思う。母親の手料理や生けた花なんかはあっても、紙の鎖や花なんて、友人たちの家にも飾られていたことはなかったはずだ。
 克哉と出会う前と後では今はまだ出会う前の年月のほうが圧倒的に長いのに、出会ってから今日までの数年だけで、克哉は御堂に一体どれほどの新しい経験をくれたことだろう。
「引かれたらどうしようと思ってたんですけど、そう言ってもらえてよかった」
「そんなわけないだろう。克哉、本当にありがとう」
 安堵の息をついた克哉にもう一度礼を言ってそっと手を握ると、はにかんだ克哉も優しく握り返してきた。
 手を握って見つめ合って、とてつもなく幸せで、なんだか瞳の奥がじわりと熱くなる。
「あ、あとこれ、被ってもらっていいですか?」
「……」
 幸せを与える柔らかな笑顔のまま克哉が差し出したのは、きんきらの紙でできた三角帽子。被り口もきんきらのふさふさした紙で縁取られ、被るとふさふさが額に当たり少し痛くて瞳の熱がうまい具合に引いた。
「飲み物だってアルコールじゃないですよ。コーラとオレンジジュース……」
 ペットボトルの飲み物のキャップを開けながらそこまで言うと、克哉がなぜか動きを止め、心安らぐ天使の笑顔の表情からどんどん眉間にしわが寄る。
 どうしたのだ。鬼のような形相で、克哉がじいっと見てくる。
「孝典さん」
「は、はい」
 何やらただならぬ雰囲気と声音につられ、姿勢を正しごくりと息を飲み克哉を見つめる。
「コーラ、飲んだことあります?」
「……はあっ?」
 思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまった。
 冗談で言っているのかと思いきや、克哉はいたって真面目に少し眉を下げ上目遣いで御堂を見ている。
 コーラを飲んだことがあるか聞かれるなんて、おそらく一生のうちで今この瞬間だけであろう。
「確かに十年以上は飲んでいないかもしれないが、学生時代にはあるぞ」
 怪訝にそう返すと、克哉の顔がわずかに曇った。曇ったというか、残念そうにしているというか、有り体に言うと『ちえっ』という顔をした。
 どうやらお子様ランチに続き、コーラを飲むのも初めてかもしれないとひそかに期待していたようだ。
 考えてみれば先程から、飾りは作ったことはあるかお子様ランチは食べたことがあるかコーラを飲んだことがあるかとまあ。
「君は私をなんだと思っているんだ」
「孝典さんならありえるかもって」
 肩を竦めてしれっと言う。
 まったく、ここまでくると実は少し馬鹿にされているんじゃないかと思えてくる。おそらく無自覚にはそうだろう。いや、自覚しているかもしれない。その上で面白がって言っているのだ。絶対。
「ほら、トクホのコーラってあるじゃないですか」
 むくれてじとっと視線を送る御堂を軽く無視して、グラスにコーラを注ぎながら克哉が言う。
「まだ試飲してないんでそれにしようかと思ったんですが、今日のこの場では野暮だなって」
 それを言ってしまうのも野暮なんではないかと突っ込もうとしたが、話が広がりそうだからやめた。
 トクホのコーラは御堂も気になっていた。MGNでもトクホの炭酸飲料は発売しているが、もっとライトな購買層を狙うようなパンチ力のある製品を企画開発し──と、ほらすぐこうだ。それは週明けオフィスで考えよう。
「はい、では改めて、孝典くんお誕生日おめでとう!」
 コーラで乾杯メインは肉と揚げ物。正直もう元気に消化できる歳ではないし、克哉もオレも作っててそう思いましたと苦笑いした。
 しかし今日は孝典くんの誕生日祝いなのだから。また一つ年老いていくのに、無邪気な子供に戻ったかのような楽しいパーティーなのだから。
 胃袋もその頃に戻った気持ちで。まあ気持ちだけでも。
「かんぱーい!」
「乾杯」
 これから共にますます年を重ねる生涯のパートナーと、これはやっぱりきつかったと笑い合いつつ二人の宴を楽しんだ。


 デザートのケーキには『たかのりくん おたんじょうび おめでとう』とチョコレートで書かれた楕円形のチョコプレートが乗っていた。会計の時に、息子さんですかと店員に聞かれた克哉は咄嗟にあ、はいと答え、おめでとうございますと祝福され恥ずかしくて逃げるように帰ってきたとのことだった。
 小さめとはいえワンホールから切り分けた一切れをなんとか食べ切って、あとは明日以降にしようと、こちらは切ったものの食べられなかったメロンと一緒に冷蔵庫に仕舞われた。
「頑張りましたね……」
「頑張ったぞ……」
 主役はのんびりしててくださいと言うのを強引に押し切り食事の片付けを手伝って、ようやくやれやれとソファに座り二人で腹をさする。食べた量自体は実際それほど多くはないのに、胃の中が膨れきっている気がする。
「胃薬飲んでおきますか?」
「そこまでではないな。しばらくじっとしていれば大丈夫そうだ」
「おじさん二人の食卓ではなかったですね」
 改めて思ったのか、克哉がふふっと笑う。
 おじさん二人。七つも下で、二十代で、社会人としてまだどこか初々しさの残っていた克哉だって、いつの間にか出会った時の御堂と同じ年齢になろうとしている。
 もちろんお互いまだまだ若くはあるが、顔つきも体型も、正直年齢を感じさせる部分が出てきたのは確かだ。
 おそらく誰しもあまり歓迎はできない『老い』なのに、例えば白髪が数本あったとか、肉の付き方が変わってきたとか、克哉の中にそれを見つけるのがなんだか嬉しいのはなぜだろう。
 そして克哉も、御堂の中のそうした年齢の証を見つけると嬉しいらしい。なんとも不思議だ。
「飾りはどうする。記念に取っておくか」
「取っておきたいですか?」
 せっかくこんなに作ってくれたのだし、今日だけでお役ごめんではもったいない。
「君の誕生日もこの趣向にしようか」
「あはは、それでもいいですよ。あ、じゃあ、風船も追加してくださいね」
「もちろん」
 克哉は冗談めいた口調で言ったが、御堂の頭の中では案を発した途端からかつやくんのおたんじょうびかいの構想が練られていた。
 飾り付けだけではなく、凝った手料理なんかを振る舞ったら、克哉はきっとびっくりするはず。いいレストランで、いいバーで、というばかりで、克哉の誕生日に手料理など今までなかった。
 御堂の御堂による克哉のための手作りパーティー。
 実は今年の克哉の誕生日の予定も立て始めていたところだったが、こちらの案のほうが断然いい。そうしよう。
「一応、ほら、すぐ下の階のお宅、下の子が幼稚園でしょう?」
 すっかり本気で企画を膨らませていたところに唐突に下の階の子供と言われ、一瞬思考が止まる。
 すぐ下の階。夫婦と子供が二人いたのを辛うじて知っているだけで、それ以上の情報は御堂のデータベースにはない。
「こんなのもらっても困るとは思ったんですが、捨てるよりはとお母さん経由で聞いてもらったら、幼稚園で喜んで引き取りますと言っていただいて」
 いつの間にそんな交渉を。さすがは克哉だ。後処理のぬかりなさにも感心するが、しっかりと近所付き合いまでこなしているとは。
 御堂に迷惑がかかるかもしれないと世間体ばかり気にしていたのに、とてもいい変化だ。そういえばたまに、何階の誰々さんがとか何々さんがとか話題に出ることがある。このマンションの人付き合いに関しては全体的に希薄と勝手に思い込んでいたが、案外円満なコミュニティーなのか。
 しかしこれは反省だ。夫の不精は妻の評判にも関わる。すれ違いに挨拶程度、ではなく、ひと言添えるとかせめてにこやかにとか、これを機に己の態度を見直そう。
「また使うのでって伝えたほうがいいですか?」
 克哉の誕生日の十二月までただ仕舞われるより、幼稚園だともっと使われる機会もあるだろう。まあ正直本音を言ってしまえば全部大事に取っておきたいのだが、克哉の作った飾りで子供たちが喜ぶところを想像すると、なんだか心が和む。
「せっかくそう言ってもらったなら一部をお渡ししよう。君の時は風船も飾るのだし、あのへんが丸ごとなくなっても彩り寂しくはないだろう」
 あのへん、と一番多く飾られた壁を指でくるくると指し示す。
 あとの飾りは克哉の誕生日が終わっても残しておこう。場所を取るものでもなし、捨てればいいのになんとなく捨てられないものが一つ二つあったって何も困らない。克哉と出会う前の御堂なら、そんなものさっさと捨てろと言っていただろうが。
 克哉と御堂を比べれば、御堂のほうが変化した部分がより多いと言える。
「じゃあ、後日お渡ししてきますね」
「ああ」
 そう交わして、しばし沈黙。
 腹も心も満腹で、静かな部屋で無言でいると、自然と体が寄り添っていく。
 強く記憶に残る、いい誕生日会だった。十分に大人になってから子供のような誕生会を開くのは、胃袋は若干つらいが結構楽しい。誰かに勧めたいくらいだ。友人でいえば内河あたりならなら面白がってやりそうだ。来週いつもの友人たちと会う予定だから、その時に提案という名の自慢をしてやろう。
「では本日のクライマックスです」
 このまったりとした雰囲気はさてそろそろと克哉の肩に腕を回そうとしたと同時に克哉がすくっと立ち上がったので、行き場をなくした腕が戸惑って踊る。
「まだあるのか」
 うふふと笑った克哉は、ちょっと待っててくださいねとリビングから出て行き、一分もせずに戻ってきた。後ろ手には何かを隠しているようで、歩み寄ってくるたびに背後からかたかたとわずかに音がする。
「はい、孝典くん、お誕生日おめでとう」
 差し出されたのは高さ三十センチほどの箱で、車や飛行機の小さな絵が賑やかに描かれた包装紙の上から、さらに青いリボンまで丁寧に巻かれている。
「それは今日用のプレゼントです」
 差し出されるまま受け取った箱をぽかんと見つめる御堂に、克哉は幼子に話すような柔らかな口調で言う。
「ちゃんとしたプレゼントは、当日のお楽しみですよ」
 今日用だなんて、そんなものまで用意してくれているとは。
 パーティーのコンセプトとこの包装紙から察するに、中身の方向性は想像できるが、はてなんだろう。
「開けてもいいか?」
「もちろん」
 なんだかお決まり的な台詞を言ったなと思いつつ、リボンを解き包装紙を開く。店でしてもらったという包装はなんだか過剰なほどあちこちテープで止まっていて、笑いながら順を追いようやく中身がお目見えした。
「ほう、顕微鏡」
 透明なパッケージを隔てて見えるそれは結構な大きさで、付属品もかなり充実していて贅沢なほどに立派なものだった。
 喘息の発作で寝込むことの多かった幼い御堂に、両親が顕微鏡を買ってくれて嬉しかったとだいぶ前に話したことがあった。克哉はそれを覚えていて、だからこそのセレクトだろう。
 一度何気なく言っただけの話をちゃんと覚えているのも嬉しいし、両親に買ってもらった当時の喜びが蘇ってきて嬉しいし、とにかくこのプレゼントがただただ嬉しい。
「随分本格的なものだな」
「それでもおもちゃの部類なんですよ。イマドキのおもちゃはすごいですね」
 興味津々で本体を取り出し手にしてみると、さすがに質感はおもちゃのそれではあったが作りはかなりしっかりしているし覗き具合もなかなかよろしく、MGNの研究室にある小型の顕微鏡と並べてあっても一見だけではどちらがどちらか分からないとすら思う。
 子供の頃にもらったものもそれなりに立派であったと記憶しているが、ここまで本格的ではなかった。本当に、イマドキのおもちゃはすごいものだ。
「ありがとう、克哉。とても気に入った」
 またまた礼を言って、顕微鏡を抱えたまま克哉の頬にキスをする。
「喜んでもらえてよかったです」
 微笑んだ克哉も御堂の頬にキスを返して、さらに深く笑み慈しみに溢れた瞳で御堂を優しく見つめる。
 それはまるで恋人というより親のまなざしで、これこそまさに無償の愛なのだといっそ痛いほどに身に染みた。
「まずは何を見ようか」
「うーん、でんぷんとか?」
「でんぷん」
 予想外の答えに思わず噴き出した。
 子供が顕微鏡で観察するものといえば、確かにでんぷんが代表例な気がする。実際幼い御堂も一生懸命片栗粉を観察した覚えがある。
 職業柄身近な物質ではあるが、プライベートで、自宅で、おもちゃの顕微鏡でわざわざ観察するなんて、なんだかとてもおかしくて楽しい。
「なんで絶対でんぷん見るんでしょうね」
「さあ、観察しやすいからとかじゃないか?」
「あとで調べてみましょうか。でんぷん、顕微鏡、なぜ」
 パソコンのキーボードを打つ動作をして、ありがちな検索ワードを言って笑う顔は、くるくるとよく変わる表情の子供の無邪気さが見える。
 親の慈しみで見つめ、子供の無邪気さで甘える。親でもあり子でもあり、しかしやはりこの存在は恋人なのだと、克哉を見つめているだけで体の奥から湧き出る欲が教える。
 愛しくて愛しくて、彼を愛するために生まれてきたのだと、愛されるために生まれてきたのだと、心から思える尊い存在。
「ところで」
 センターテーブルに顕微鏡を宝物のように置いて、同じく宝物のように克哉の手をそっと握る。
 いや、ように、ではなく、宝物そのものだ。
「今日はこのまま、子供の時間なのか?」
 吐息たっぷりに熱っぽく耳元で囁くと、克哉は一瞬小さく体を震わせたが、すぐにくすりと笑い、御堂の鼻先に鼻先を擦ってくる。
「どうでしょうね?」
 妖艶に微笑む瞳はもう御堂と同じかそれ以上の熱を纏い、囁き一つで色を変えた欲の深さに火種が煽られる。
 親などではない。子ではない。浅ましく貪欲で淫らな、克哉という名の愛しい情人。
「じゃあ、一つ大人の階段を上った孝典くんには、大人の祝福を」
 額に柔らかな祝福のキスを落とされたあとは、なんと形容すればいいのか分からない。もう何十年と生きてきて、数多の経験を積んでいるのに、それでも御堂には分からない。
 ただ克哉に出会えてよかったと、これからの生も克哉と共にあるのだと、強く静かな祈りのように繰り返されるだけだった。
2014.09.29