Homonym ☆
※御克じゃない!!※
御克なのに克克要素*メガミドなのに克克要素
*VFB2ネタ有



 やってしまった。分かってるのにまたやってしまった。
 いや、分かってるのに、っていうのは正しくはないかもしれない。それはダメだと本能が警告している気がしたのに、かな。
 だって仕方ないんだ。あの果実を目の前にしたら、警告なんてお構いなしに、その毒々しいまでの赤い実を噛み砕いて、滴る果汁を飲み干したくてどうしようもなくなるんだ。
 それがあの、柘榴という果実にかけられた呪いなのかもしれない。なんて。
 とにかくオレはまたまんまと柘榴を口にしてしまって、もう何度来たか分らない、どうやって辿り着いたのか、本当にこんな場所が存在しているのか、夢か現実か確かなものが何ひとつないこのクラブRの長い廊下を延々と歩き続けている。
 そもそも、これが廊下なのかなんなのかも分からないけど。
 天井も、幾重にも壁を覆うビロードのカーテンも、三メートル幅ほどの広い通路の床に敷かれた絨毯も、柘榴の実のような深紅に染められていて、もしここが明るい場所だったら視界は全て赤い色に侵されて気が狂ってしまいそうだ。
 前に進むごとに、二、三歩先が辛うじて分かるくらいの仄かな明かりがどこからともなく照らすだけの薄暗さが、不安ではあるけど幸いでもある。
 もうだいぶ歩いている気がするけど、ここに来てからどれくらいの時間が経っているのか全く分からない。着ているものはスーツだけど、いつも付けている腕時計がない。まあ、ここに来て時間を気にするなんてバカらしいか。
 クラブRというところは本当に不思議だ。ここに来ると、今まで柘榴を食べて起こったこと全てを思い出す。もう一人の自分、眼鏡をかけた<俺>との出会いや、あの人とのあんなことやあいつとのあんなこと、信じられないとんでもないこと。そんな強烈な出来事も、元の世界というか、オレが日常を送る世界に戻ってしまえば、何もかも、クラブRのことすら忘れてしまうのに。
 前に来たのはいつだったっけ。確かあれは……と考えたその時、真っ暗で何も見えなかった廊下の先に、ぼんやりと明かりが見えた。出口、ということは今までの経験上絶対にないから、恐らくは今回の狂宴への入口なんだろう。分かってはいても、どうしてもそこに行かなくてはいけない気がして、無意識のうちに早足で歩を進めた。

 だいぶ先に見えた光の元は、実際には十数メートル程度の距離だった。だいぶ先に見えていただけなのか、勝手に距離が縮まったのか。
 明かりは、廊下の突き当りに垂れ下がる、カーテンの隙間から漏れていた。この先、このカーテンをくぐると、今回はどんなおぞましいことが起きるんだろう。でもなぜか、オレは今すごく落ち着いていて、まるでこれから楽しいことが待っているかのような気分にすらなってきた。クラブRにいる間は、そんな気分になるはずがないのに。
 それが今回の柘榴の効果によるものなのか分からないけど、ここまで来てあれこれ考えても仕方ないから、オレは最後の覚悟を決めて、えいっとカーテンを押した。

「わ、まぶしっ」
 飛び込んだ先は、クラブRとは思えないほど明るいだだっ広い空間で、暗がりに慣れた目があまりの眩しさに痛む。どこからともなく爽やかな風まで吹いていて、すごく天気のいい日の陽だまりの中みたいだ。
 どうせ、そこかしこが赤く染められて、むせ返るような甘い香りが満たされたいかがわしい雰囲気満点のお馴染みの部屋だと思っていたのに、予想もしていなかった和やかな空間に、呆気に取られる。
「え、何、趣向変え?ああ、油断させといて突き落とすとかそういうの?」
 一人でぶつぶつ言いながら場を確認しようと振り向くと、ここに入ってきたはずの入口はもうなくて、同じように広い空間ができていた。
「あ……」
 その何もない空間の少し離れたところに、オレに背を向けて立つ人影があった。このクラブRの主、Mr.Rかはたまた眼鏡の<俺>かと一瞬心臓が跳ねたけど、背格好からしてどうやらその二人ではないらしい。
 でも全く知らない背中ではなくて、むしろよく見知った、というか毎日目にする後姿に、また心臓が跳ねる。
「なんで……こんなとこに」
 見間違いかと思ったけど、いくら遠目で見ようとも、あの人の背中は見間違えるはずがない。オレの大好きな人の姿を。
 でも、なんだろう。このむず痒いような不思議な違和感は。間違いなくあの人なのに、何かが大きく違うような、でも些細なことのような。クラブRで見かけるはずもない人がいるからだろうか。
「た……」
 とりあえず声を掛けようとして、ふと思った。ここはどこか。クラブRだ。夢か現実か分からない、ありえないことが当たり前に起きる場所。
(もしかして……いや、絶対にそうだ。うん)
 それならこの違和感の理由も分かる。オレは確信を持って、あの人の名前を呼んだ。
「御堂さん」
 こんなところで急に声を掛けられたらびっくりするだろうから、なるべくそっと呼んだつもりだけど、それでもやっぱり少し驚かせてしまったみたいで、御堂さんは一瞬びくっと体を跳ねさせて、素早く振り向いた。
「君は……」
 オレの姿を見止めて、御堂さんがはっと息を飲む。ほら、やっぱりそうだ。
「お久しぶりです。またこんなところでお会いするなんて」
「ああ、そう……だな」
 御堂さんはかなり動揺してたけど、オレがそばに走り寄る数秒の内に現状把握と状況整理が終わったみたいで、やれやれってふうに苦笑いした。
「まさかまた君に会えるとは」
「ほんと、まさか、ですよ」
 顔を見合わせて、二人で苦笑し合う。
 そう。まさか。まさかこの人にまた会えるとは思ってなかった。
 御堂孝典さん。オレが心から愛する、誰よりも何よりも大切な人。でもこの人は、オレが愛する人とは少し違う。確かに御堂孝典という人ではあるけど、オレの恋人の孝典さんじゃなく、眼鏡をかける人生を選んだもう一人の自分、<俺>の恋人の御堂さんだ。
 <俺>の恋人の御堂さんとは、前にクラブRで会ったことがある。あの時は、孝典さんと御堂さんがオレと<俺>みたいに二人になってて、本多も二人で、太一もいて片桐さんもいて、それからえーっと、秋紀くん、オレのことを克哉さんパート2さんと呼ぶあの子もいて、みんながそれぞれオレと<俺>の恋人で、もう何がなんだか、いくらクラブRだとしても突飛にもほどがあるめちゃくちゃな出来事だった。
 あの時のことを色々思い出すと、御堂さんと顔を合わせるのはかなり恥ずかしいけど、<俺>の恋人の御堂さんとは実は少し話をしてみたかったから、こうして会えてちょっと嬉しい。
「どうしてこんなところに?」
「分からない。気付いたらここに立っていた」
「何か変なもの食べたりしませんでしたか? その……柘榴、とか」
「柘榴? ……いや、思い出せないな」
 全く。オレだけじゃなくて御堂さんまでまた巻き込むなんて。<俺>が知ったら、ただじゃ済まないぞ。って、そのほうがMr.Rとしては嬉しいのか? ……うーん、ぞっとする。
「今回はオレ達二人だけ……みたいですね」
「だといいが」
 二人で辺りを見渡して、どこからともなく<俺>とか孝典さんが出てこないかよくよく確認する。
「あれ?」
 そうしてきょろきょろして御堂さんに視線を戻すと、今の今まで何もなかったはずの御堂さんの背後に、楕円形の大きめのテーブルと、テーブルを挟んで向かい合わせに置かれた椅子が二脚唐突に現れていた。
「御堂さん、後ろ」
「ん? っ、いつの間に……」
 テーブルの上には、いわゆるアフタヌーン・ティーのための一式が揃えられていて、つまりは御堂さんとティータイムを楽しんでってことなんだろうか。
「ふむ。今はアフタヌーンか?」
「はは、さあ……うーん、立ったままもなんなんで、一応座りましょうか」
「そうだな」
 席に着いたものの、なんとなくお互いテーブルの上のものには手を出しにくくて、どうしましょうって顔で御堂さんを見ると、御堂さんも困った顔をして笑った。
「せっかくだから、招かれようじゃないか」
「……果敢ですね」
「死にはしないだろう」
「そうでしょうけど……あっ、オ、オレ、オレやりますから」
 二の足を踏むオレをよそに、御堂さんがカップに紅茶を注ごうとするのを慌てて代わる。
 紅茶と思わせておいて柘榴の果汁が出てきたらどうしようと思ったけど、ティーポットから出てきたのは間違いなくちゃんと紅茶でほっとした。
「紅茶なんて、めったに飲まないですよ」
「私もだ。もっぱらコーヒーだな」
「ああ、オレもです」
 柘榴の赤とは違う、金色が混じったようなきれいな濃い紅い色と、柔らかで甘みのある香りが、極々たまにオフィスで飲むティーバッグの紅茶とは比べ物にならないくらい高品質の茶葉から抽出されたものであることが、紅茶のことなんて全然知らないオレにも容易に分かる。
「すごくきれいな色ですね」
「アッサムか」
「分かるんですか?」
「恐らく、だが」
「すごいですね。アッサムだとミルクが合うんだっけ。ミルク入れますか?」
「そうだな。入れてもらおうか」
「はい」
 分量を尋ねつつミルクジャグからミルクを注いで、ソーサーにスプーンを乗せて御堂さんに渡す。
「ありがとう」
 小さく笑って受け取った御堂さんが、孝典さんに重なってどきっとしてしまった。
 孝典さんと御堂さんは、オレと<俺>みたいに眼鏡によって別の存在に別れたとかじゃなく、ただパートナーがオレか<俺>かだけの違いで、元々ひとつで一人の御堂孝典なんだから重なって当たり前だけど、でもこっちの御堂さんはあくまでも<俺>の恋人なのに……。
「さっ、砂糖はいかがですか」
「ああ、いただこう。ミルクティーなら、少し甘いほうが好みだ」
 ときめいてしまったことに動揺しつつ、シュガーポットを差し出すと、また小さく笑って砂糖を入れる御堂さんがやっぱり孝典さんと重なって、さらにときめいて勝手に顔が真っ赤になる。
「ミミッミ、ミルクは先に入れるんですよね。失敗しますた」
「何を動揺してるんだ?」
「いいいいえ、何でも! 何でもないです!」
 スプーンでぐるぐるかき混ぜるオレに怪訝な目を向けつつ、あまりかき混ぜるものじゃないぞとたしなめて、御堂さんがそっとミルクティーをかき混ぜる。優雅な手つきについ見惚れて、なんとなく罪悪感が湧いて心の中で孝典さんに謝る。
「ス、スコーン! スコーン焼き立てですね! おいしそう。召し上がりますか?」
「ああ、たまには焼き菓子もいいな。取り皿はこれか」
「あ、すみません、ありがとうございます」
 大きめのスコーンとサンドイッチをひとつずつ取って、二人分用意されたクロテッドクリームと数種類のジャムが入った仕切り皿を前に置けば、すっかり豪華なアフタヌーン・ティーの様相だ。
「甘いもの多過ぎですね」
「胸焼けしそうだ」
 二人で笑い合って、さっそくミルクティーに口を付ける。濃い紅茶の味と、まろやかなミルクとほどよい甘さに癒されて、思わずほうっと息をつく。クラブRでほっと一息つくなんて、思ってもみなかった。
「それにしても、君は紅茶の知識があるのか」
「えっ? あ、いえ、全くないです」
「そうなのか? その割に、アッサムにはミルクだとか、ミルクは先にとか、よく知っているな」
「ああ。お恥ずかしながら聞きかじりですよ。前に、えーっと……たかのり、さんとイギリスに旅行した時、アフタヌーン・ティーをいただくことになって、事前にいろいろ調べたんです」
 孝典さん、と言われて御堂さんは少し首を傾げたけど、すぐに理解して頷いた。
「そうか、それで」
「はい。付け焼刃でも、ある程度の知識はあったほうがより楽しめるでしょうから」
 あれは秋の連休で、特に目的はなかったけど、なんとなく二人でイギリスに行きたいってことになって、オレは初めてのイギリス、孝典さんは仕事とプライベートと合わせて何度目かのイギリスに出掛けた時の話だ。
 孝典さんも何度目かとはいえいわゆる観光地はあまり回ったことがないと言うから、イギリスと言えば! という観光地を短い期間にこれでもかと巡って、最終日はゆっくりとアフタヌーン・ティーを摂ることにした。最低限のマナーをこなしていれば何の知識がなくてもいいんだからと苦笑する孝典さんを尻目に、オレは朝からアフタヌーン・ティーの作法や紅茶に関するあれこれをメモまで取ってよく調べた。
 もちろん孝典さんの言う通り、老夫婦とその娘さん夫妻がのんびり経営しているアットホームなティールームでは、詰め込んだ作法は一切必要なかったけど、紅茶の知識はそれなりに役に立って、おいしい紅茶とおいしいお菓子を存分に楽しんだ。知り合いのうちにお邪魔してるような和やかな雰囲気のそこが気に入って、またイギリスに来た時もここに寄ろうと二人で言い合った。
 そういえば、ティーバッグじゃない紅茶なんて、あの時以来かもしれない。
「イギリスか……もう随分行っていないな。二人ではよく旅行に行くのか?」
「そうですね。まとまった休みが取れれば、海外に行くことが多いです。御堂さんはあまり行かれませんか?」
「行っても日帰りか近場で一泊程度だな。他の社員はきちんと休みが決まっているが、私と……佐伯は、休日はあるようでないものだから」
 佐伯というのは、もちろんオレじゃなくて眼鏡の<俺>のことだ。孝典さんはオレのことはプライベートでは下の名前で呼ぶから、同一人物同士の恋人同士でも、少しあり方が違えば呼び方まで違うのかと感慨深い。
「あれ、御堂さんと、えーっと、眼鏡をかけた<俺>は、MGNに勤めてるんじゃないんですか?」
「ん? 知らないのか? いやまあそうか。こちらの私達と、そちらの君達では、世界が全く違うようだからな」
 御堂さんが一人でふんふんと納得するのを、不思議に見つめる。眼鏡の<俺>とはクラブRでよく会う──というのもなんだな──けど、どこに勤めてるだとかそんな話をしたことはないから、てっきり眼鏡の<俺>もオレと同じように、MGNに引き抜かれてってことになってるのかと思っていた。
 話をしたことはないというか、話す前に変なことになるから仕方ないというかなんというか。
「君はMGN勤務なのか」
「はい。商品企画開発部第一室所属で、孝典さん直属の部下です」
「そうか、そちらの私は、今でもMGN企画開発部の部長か」
「はい」
 そうか、ともう一度言って、御堂さんは少し俯いてミルクティーを口に運ぶ。
 妙な沈黙が流れて、ちょっとに不安になる。どうしたんだろう。何か、まずいことを言ってしまったんだろうか。
「あ、ああ、すまない。いや……不思議なものだと思って」
「?」
 はっと顔を上げて、御堂さんが苦笑する。よく分からず戸惑っていると、御堂さんがますます苦く笑う。
「私はもう、MGNを辞めてるんだ」
「えっ」
 予想もしていない言葉に驚く。御堂さんが、MGNを辞めている。若くしてMGNジャパン商品企画開発部の部長にまで昇りつめた人が。
「詳しくは……話すようなことではないが、まあ色々あったんだ。今は、佐伯が興した経営コンサルティング会社の代表取締役専務を務めている」
「佐伯が興したって……<俺>社長なんですか!?」
「そうだ」
「ええ!!」
 またしても予想もしていない言葉に、唖然とする。社長! <俺>が、佐伯克哉が社長!御堂さんが専務ってことは、御堂さんが部下! ええ!
 開いた口を閉じられないオレに、御堂さんが喉を鳴らす。
「会社の規模はまだまだ小さいから、今は大きい仕事だろうが小さい仕事だろうが、引き受けられると判断したものは可能な限り全て受けている。とにかく実績を上げて知名度を上げるのが先決だからな。自ずと働き詰めになるが、それはそれで、MGNにいた時とはまた違う遣り甲斐があって、充実している」
 オレは<俺>と御堂さんの馴れ初めは知らない。今御堂さんが、話すようなことではないと言ったから、多分オレが興味本位で聞いていいことじゃないんだと思う。それはオレと孝典さんの始まりを誰にも触れられたくないのと同じだから、御堂さんの気持ちはよく分かる。話すようなことじゃないから話さないんじゃなく、それがどんなことでも誰にも渡したくないから話さないんだ。
 御堂さんがMGNを辞めた経緯もきっとその範疇に入っていて、だからどうして辞めたのかはオレは聞かない。<俺>と御堂さん二人しか知らない何かがあって、御堂さんはMGNを辞めて<俺>が会社を興すことになった。オレが知っていいのはそれまでだ。御堂さんも、オレがちゃんと理解するはずだと思ってるから、こうして話してくれてるんだろう。
「……眼鏡の<俺>と御堂さんの会社じゃ、いずれは大企業になるんでしょうね」
「大企業という言い方が正しいか分からないが、私も佐伯も、大きな会社にしたいと思っている。あいつは強引で自信過剰なところがあるが、それに目を瞑れるくらいの結果を出しているし、会社経営には案外堅実だ。まだ先のことにはなるが、必ず名立たる企業と肩を並べられる……いや、それ以上の会社にしてみせる」
 静かに力強く語る御堂さんは、オレがよく目にする、仕事に取り組む孝典さんの顔と全く一緒だ。
 孝典さんはいつでも力強いエネルギーに溢れていて、その有無を言わせぬ圧倒的な存在感は、時に人に誤解を与えたりすることもある。もちろんそれはあくまで誤解であって、御堂孝典という人を正しく理解すれば、誤解から生じた恐れもあっという間に畏怖にも近い尊敬の念に変わるけど、残念ながら誤解を持たれたまま軋轢を生んでしまうことが多いのも事実だ。
 御堂さんには、孝典さんのそういう強い部分がない気がする。代わりに、たおやかというかしなやかというか、どう表現したらいいのか分からないけど、外にエネルギーを発するというよりは、発せられた力を吸収して包み込むような、広くて深い海みたいな雰囲気を持っている。
 孝典さんがぎらぎらと照らす太陽だとすれば、御堂さんは静かに光る月みたいだ。
 でも今の御堂さんは、目が眩むほどに光を放つ孝典さんと寸分違わない強さが見える。やっぱり御堂さんも孝典さんと雰囲気こそ違えど同じ御堂孝典なんだと、さっきから何度も思っている当然のことを改めて感じる。
「はー、<俺>が社員を抱える一企業の社長かぁ」
「社員といっても、まだ両手で足りるほどだがな。MGNにいるなら、藤田を知っているだろう。彼もその内の一人だ」
「へえ! 藤田くんも!」
「佐伯も一時期MGNにいたんだが、藤田に一目置いていたらしく、初めて社員を雇う際に彼をMGNから引き抜いてきた」
「藤田くん仕事できますもんね」
「ああ。優秀で気配りが細かいし、何よりあの明朗快活さは、社内を明るくしてくれるいいムードメーカーだ」
「よく分かります」
 藤田くんの屈託のない笑顔が浮かんで、思わず笑みが漏れる。
 藤田くんは若くて、話をするとどこか幼いところがまだあるからすぐには気付かれにくいけど、入社一年目から『あの』御堂部長の補佐をしているだけあって、実はかなり優秀だ。でも優秀さをひけらかすことなく、というかむしろ自分が優秀なことに無自覚なのか、雑務でもなんでも明るくこなす姿はすごく好感が持てる。それは眼鏡の<俺>の世界でもなんら変わりないんだろう。
「佐伯克哉が眼鏡をかけただけで、御堂さんの人生だけじゃなく、藤田くんの人生まで変えてしまうんですね」
「はは、確かにそうだな。誰かが何かひとつ違うだけで、その周りの人間も違うものになる。当然いえば当然だが、不思議なものだな」
「なんかすみません……。佐伯克哉の人生に巻き込んでしまって」
「なぜ謝る。巻き込まれはしたが、その渦に身を任せる選択したのは私自身だ。藤田だってそうだ。君のせいでも佐伯のせいでもない。私は自ら、佐伯と共に歩むと決めたんだから」
「!」
 共に歩む。ずっと前、付き合い始めの頃、孝典さんに言われた言葉だ。
 自分なんて消えてしまえばいいと思って俯いた人生を送っていたオレを、孝典さんに根こそぎ奪われた。辛くて、苦しくて、でもいつの間にか惹かれて、そばにいたいと思った。孝典さんに変えられて少しは自信が持てるようになったけど、それでも卑屈になってしまうのは長年馴染んでしまった癖みたいなもので、どうしても俯きがちになるオレに、孝典さんが言った。誇りを持て、俯くな、君は、私と共にずっと歩むのだからと。
 だからオレは、孝典さんのそばにいても恥ずかしくないような、孝典さんにもっとふさわしい人間になれるように、前を向いてその背中を追いかけてる。いつか隣に並んで、同じ場所で、同じものを見ることができるオレになるために。
 この道の前まで導いてくれたのは孝典さんだけど、前に踏み出して歩むことを決めたのはオレだ。オレが自分で、孝典さんのそばにいて、高い高い所に昇る道を行くことを選んだ。御堂さんも、同じなんだ。
「ん、少し気障だったか?」
 オレが黙ってしまったのを勘違いしたのか、御堂さんが少し赤くなった。
「あ、いえ! そうじゃなくて、孝典さんも同じこと言ったなって、思い出してたんです」
「そちらの私も?」
「はい。共に歩むって」
「……そうか。どんな世界でも、御堂孝典は佐伯克哉と共にある運命か」
「ふふ。気障ですね」
「そうだな」
 おどけて言う御堂さんと笑い合う。
 御堂孝典は佐伯克哉と共にある運命、か。
 どんな始まりでも、どんな形でも、あなたは佐伯克哉のそばにいてくれるんだ。なんて幸せなんだろう。なんてすばらしい人生なんだろう。
 大げさかもしれないけど、オレは心からそう思った。

 紅茶とお菓子をおかわりしつつ、二人でいろんなことを話した。
 <俺>と御堂さんの会社、アクワイヤアソシエイションのこと、今のMGNのこと、<俺>の不満なところ──という名の惚気だったけど──、将来のこと。
 孝典さんとも話したことがないようなことも、御堂さんとたくさん話した。
 何度おかわりしてもティーポットの中の紅茶が減らなくて、どうなってるんでしょう、気にしても仕方ないと言って、ずいぶん長い時間ティータイムを楽しんだ。
「あれ、中、もうない……」
「本当か? また唐突に……っ!」
「わっ!」
 ティーポットの蓋を開けようとした瞬間、それまで心地好く吹いていた静かな風が、いきなりものすごい突風になって思わず目を閉じた。
「えっ」
「なっ」
 風が収まって目を開けると、オレと御堂さんが向かい合わせで立っていて、テーブルと椅子が跡形もなく消えていた。
 一瞬の出来事に驚いて顔を見合わせたけど、お互いなんとなく、その理由は分かった。
「時間のようだな」
「そうみたいですね」
 もうこの摩訶不思議なティータイムは終わり。御堂さんともお別れの時。そういうことだろう。
「とても楽しかった。会えてよかったよ」
「オレもです。御堂さんとたくさんお話しできて、嬉しいです」
「そんなことを言うと、そちらの私が嫉妬するぞ」
 孝典さんはすごく嫉妬深い、とついつい零してしまったことを、御堂さんが意地悪く笑って引き合いに出す。
「ばれなきゃいいんです」
「おっと。君もなかなか悪い奴だな」
「オレも佐伯克哉ですから」
 あいつは悪知恵ばかり無駄に働くと御堂さんが愚痴ったことを、今度はオレが引き合いに出して二人でくすくす笑い合う。
「また会いたいのはやまやまですけど、ここにこないといけないと思うと複雑です」
「全く同感だ」
「お会いできる日がくるか分かりませんが、お元気で」
「ああ、君も」
 御堂さんが右手を差し出す。オレも右手を出して、ぎゅっと握った。孝典さんと同じ、大きくて温かい、優しい感触だった。
「じゃあ」
「はい。さよなら」
 一抹の寂しさを感じつつ、御堂さんに背を向ける。もう少し話をしていたかったけど、自然に足が前に動いて、御堂さんとは逆の方に歩いていく。振り返りたくても、体が動かなかった。
 これから御堂さんは、<俺>の元に帰って、オレは孝典さんの元へ、本多の元へ、太一の元へ帰る。
 オレが選んだ、それぞれのパートナー。始まりは別々だけど、オレが愛して、オレを愛してくれるのは同じな大切な人たち。
 本多のところにも太一のところにも早く帰りたいけど、今は特に、孝典さん、あなたの元へ、早く帰りたい。
 あなたのいる世界に戻ったら、この出来事だって忘れてしまうけど、ただひとつ、真っ先に言うべきことだけは忘れない。
 目を開けてすぐに紡ぐ言葉に、あなたはきっと、怪訝な顔をするだろう。何かあったのかと心配させてしまうかもしれない。あらぬ疑いを持たせてしまうかもしれない。
 でもいい。とにかくあなたに、愛してると、早く早く告げたい。
 それから、あなたとしたいこと、見たいもの、行きたいところ、いろんな話をたくさんしたい。オレたちの未来を、理想や空想じゃなく現実のものとして、たくさん話したい。
 すぐに帰るから。待っていて、オレの孝典さん。









「御堂さん、御堂さん」
「ん……。さえ、き」
「珍しいですね、あなたがソファでうたた寝なんて。具合でも悪いか?」
「いや、大丈夫だ。もらった酒が、案外アルコールがきつかったようだ」
「もらった酒?」
「ああ、そこの……ん? お前片付けたのか?」
「いえ? 今帰ってきたばかりですから」
「ああ、お疲れ。じゃあ、私が片付けたのか……」
「しっかりしてくださいよ。なんの酒だったんですか?」
「柘榴酒だ」
「……柘榴?」
「ああ、珍しいだろう。私が担当していた、オーセンティックバー立ち上げの案件を覚えてるか? オープンから一ヶ月だから少し様子を見に行ったんだが、帰り際バーテンダーに、世話になった礼だと言われてもらったんだ」
「……どんなバーテンダーでした?」
「どんな、と言われても……そういえば初めて見るバーテンダーだったな。背が高くて眼鏡をかけた……ん、顔がよく思い出せない」
「御堂さん」
「なんだ、怖い顔して」
「知らない人から柘榴をもらっちゃいけませんって、習いませんでした?」
「は?」



 ∞あきにゃんの扱いについて∞ 
2012.07.23