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 今日もいい一日だった。
 仕事は順調、体調は万全、天気もよかった。
 何事もなく、いい気分で一日を終えられる。最良の生活だ。
 愛情たっぷりの手料理のあとは、くっついてテレビを見て、一緒にぬるめの風呂にゆっくり浸かれば、明日への活力が自ずと漲ってくる。
 理想を絵に描いたような夜の締めは、もちろんセックス。
 そう、何はなくともとにかくセックス。愛しい半身とふたりでいるなら、半身とベッドに入れば、当然イコールセックス。愛し合うふたりには当たり前の公式。
 しかしそれは時として。
「あ、ごめん待ってた?」
「ん」
 明日の準備を終えた半身が、寝室に入ってくる。
 ダウンケットにくるまって視線を送る俺にこれ見よがしに、風呂上がりでまだ少し上気した肌を艶めかせ、俺が乾かしたさらさらの髪を揺らして、ゆっくりとベッドに潜り込む。
 伸ばした俺の腕の上に首を乗せて、収まりのいい位置に体を付け、焦点の合うぎりぎりの距離に顔を寄せる。
 瞳にかかる前髪を梳いて額の上にあげてやると、なんだか嬉しそうに笑った。
「なあ、甚平欲しくない?」
 そう呟いた吐息が、唇にかかる。
 上目気味にじっと見つめて、甘えた口調で提案するこのあざとさ。しかしそんな計算高いところも含め、かわいいとまんまと思う。
「ふむ。いいかも」
 夏の部屋着は、シャツとハーフパンツとか、そんなのが定番だ。それも楽で涼しいが、甚平ならもっと楽そうだし、何より甚平を着た半身を想像してみたら似合ってかわいいから提案にはなんの異論もない。
「な。スーツと一緒にさ、買おうよ」
「うん」
「やったー」
 ふにゃっと喜ぶ半身がかわいいから、つられて笑って、軽くキスをした。そしたらまたふにゃっと喜んだから、やっぱりかわいくてもう一度キスした。
 来月支給される夏のボーナスを当て込んで、夏用のスーツを新調することにしていた。今年は今月マンションの更新もあるからあまり値段の張るものは買えないものの、ついでに何かしら夏物の衣類も買う予定でいた。
 ちょっといいシャツか、ちょっといい下着類かなどと考えていたところだったが、仕立てのいい甚平を何着か買えばちょうどいいじゃないか。
「今度の土日に行こっか」
「任せる」
「んー、じゃあ土曜日」
「ん」
「うん。あー、出掛けるんだったら、ついでにあれとー、あれも見たかったんだよな。回るとこ書いておかなきゃ」
 最近は予定もなかったから週末は完全に引きこもっていて、久しぶりの『おでかけ』にあっという間に半身のテンションが上がる。
 外に出ればひとつになっちゃうから寂しいとか殊勝に言うくせに、出掛けるなら出掛けるで浮足立つんだこの半身は。
 子供のようにうきうきとおでかけスケジュールを組み始めた半身に半ば呆れて、あやす手つきで頭を撫でてやる。
 すると半身は白熱する自分にはっとしたのか、枕に顔を埋めて頬を赤らめた。
「うはは、はしゃぎすぎ……」
「いいじゃないか。久しぶりの克哉くんとのおでかけに、克哉くんはもうテンションマックスなんだろ」
「バカにしてっ」
 からかうと、寝返りを打って反対側を向いてしまった。しかしこの状態は、より体をくっつけることができる良体勢だ。だから遠慮なく、丸まった背中を抱きしめてやる。
「おでかけ楽しみ」
「うるさいもうっ」
 半笑いの言葉に尖った言葉で反抗するものの、体は特に離れようとはしない。そっぽを向くのはつまりはもっとくっついてのおねだりなんだから当然だ。
「他にどこ行くの」
「色々」
「色々?」
「んんんー、やーめ」
「んー?」
 首筋に鼻先を擦って、尻の谷間に股間を擦る。
 いやがるのを押さえ付けてより強く擦り付けると、半身は肩を揺らして喉の奥で笑う。
「くしぐっちい」
「くしぐっちい?」
「ふふふ」
 よく分からない言語だが、笑ってるんだから楽しいんだろう。俺も楽しくなって、気持ちいいことになってきた股間をさらに押し付ける。
 しばらくそうしてじゃれるうち、半身のうなじからは色めく香りがして、笑う吐息にほのかな熱を感じるようになってくる。
「ん……」
 下腹に血が集まるのが分かる。擦り付ける、弾力のある狭間をより知覚しやすくなって、気持ちがよくて動くままに腰を揺らす。
 半身も多分同じ状態で、俺の動きに合わせ自分でも腰を揺らせているのがいやらしくて煽られる。
「ん、ん、ん」
 さっきまで無邪気にきゃっきゃとはしゃいでいたのに、打って変わって艶めかしい吐息を漏らす。
 本当にこの半身というのは、卑猥な生き物だ。
「んあ、ん、ん、は」
 完全に硬くなった股間が力強く脈打つ。狭い下着の中で、俺のいるべきところはここじゃないと叫んでいる。
 このままさっさと邪魔な衣類を剥ぎ取って、恐らくもうひくついて蠕動を繰り返しているであろう半身の中にこの熱を正しく収めてやりたい。
 それはもちろん。ゆうべだってそうだった。ベッドに入って、ちょっといちゃいちゃしてれば、すぐ始まる。
 でも、今日は、今夜は、なんとなく。
「んふふ」
「んー?」
「うへへ」
 普段ならもうとっくに、早く入れてと浅ましく腰を振っているはずの半身は、熱く濡れた吐息で、しかし笑っている。
 ここまでくればあとはもう入れるだけなのに、そうはならない。
 さっき一緒に風呂に入った時も、夕飯を終えてくっついてテレビを見ている時も、いやさらにその前うちに帰ってきた時も。
 抱き合ってキスのひとつふたつでもすればすぐにそうなるのが俺たちには当然なのに、なぜかそこまで及ばない。
「ふひひ」
「ふ」
 したい気持ちはある。半身に触れていれば当然立つし、入れたいし、気持ちよくしてやりたい。
 だがふと、あ、今日はこのままでいいかなと、ただ抱き合って、他愛のない会話をして、時折キスしてじゃれ合って、そうしていつの間にか穏やかに眠りに就くのがいいと、そんな気分になる日がある。
 できない日でも、しないでおきましょうの休姦日でもない、セックスしない日。
 しなくていい。ぎゅっとして、話をして、もうそれで十分。
 こんな日は、何も言わなくても、あえて確認しなくても、ふたりの気分が不思議とシンクロする。
 だからうちに帰ってきた時から分かってた。今日は俺も、半身も、そんな気分なんだと。
 慌てて体を繋げなくても、明日も、明後日も、ずっと俺たちは一緒にいるんだから、時にはそうじゃない夜があってもいい。
「どうする、今年はボーナスカットですとかなったら」
「返品する」
「返品」
「ボーナスがっ、ボーナスがカットされたんですって泣きながら訴えたら、お店だって許してくれるよ」
「ああ、泣いちゃったら仕方ないな。返品してもいいですよって言ってくれるな」
「うん、泣く子には勝てないから」
「勝てないな」
「うん」
「うん」
「ふひ」
「ふ。馬鹿」
「ひひ」
 くだらない会話。ただ声を聞きたいから、言葉を交わしたいから、実にもならない馬鹿馬鹿しいやりとり。
 何がおかしいんだか自分たちでも分からないのに、何かがおかしくて小さな笑いが止まらなくなる。
 揺れる肩にごしごしと額を擦ると、半身は後頭部を擦り付けてきて、そんなことすらおかしくて、ふたりでわざと変な声を出して笑う。
「こっち」
 ひとしきり変な声合戦とかやっぱり馬鹿馬鹿しいことをしたあと、半身の体をまた反転させて、向かい合わせで見つめ合う。
 微笑む半身の瞳は欲に濡れたように潤んで蕩けていたが、その奥に色香はなく、ただ純粋無垢に澄んでいる。つまり蕩けているのは眠気のせい。
 うとうとしだした目尻をそっと親指で撫でると、半身は心地よさ気に目をつぶった。
「もう少し、喋ってたいのに」
 かわいいことを言う。キスしてやろう。
「ん……」
 優しく舌を合わせるたび、俺もじわじわ眠くなってくる。
 重ねた互いの股間はまだわずかに芯を残してはいるものの、熱の疼きは感じられず、本体と同じくゆったりとその身を横たえるだけだ。
「明日も、一日、がんばろー」
「おー」
 眠りに落ちる直前、なんとかとつとつと士気を上げた半身に、俺もなんとか返事をして、静かな世界に落ちていく。
 激しく過ごした夜と同じように、額を合わせて、手を繋いで、寄り添って眠る。
 そして朝になれば、おはようと言い合って、キスをして、今日も一日頑張ろうと同じ士気を上げて、新しい一日が始まる。
 仕事は順調、体調は万全、天気もいい。そしてセックスしない夜の今日。
 さて明日は、どんな一日になることだろう。
2014.06.04