Trivial □
7月中旬頃のお話*さよなら太一…



 もういい加減髪切らないと、と、鏡に向かう半身が独り言のように言った。
 どうにも切りに行く時間がなくて、せめて鬱陶しい前髪をごまかそうと軽く後ろに撫で付けて出社したら、なんだか外人モデルみたいでかっこいいとか言われて悪い気はせず今日まで伸ばし続けてしまった。
 いや、切る時間がないというのは単なる言い訳で、平日は無理でも休日なら散髪する時間くらいは十分にあるのに、正直行くのが面倒臭いのが本音だ。
 何せ散髪するには、電車に揺られ数十分、引っ越す前の街まで行かなくてはいけないから。
 なぜそんな馬鹿げたことをしなければならないかというと、こっちに越してきたばかりの頃、雰囲気がよさげだと入った美容室での担当がよくまあべらべら喋るやつで、うんざりして新規開拓に懲りたからだ。
 たまたま運が悪かったといえばそれまでだが、とにかく俺はもう二度とこの街で髪を切らないと固持し、半身もそんな一回くらいでとぼやきつつ気持ちは分かるようで、以来散髪には面倒でも以前と同じ理容室に足を運んでいるのだった。
 もう本格的に夏だ。会社ではかっこよく撫で付けて、家ではかわいく前髪をゴムでまとめる半身を見ることができなくなるのは痛恨の極みだが、撫で付けられる前髪はともかく襟足がもさもさと首に絡んで暑苦しい。
 よし行くかと重い腰を上げて、週末は前の街まで散髪しに行くことにした。


 予約もなしにこんにちはと訪ねると、先客がいてお待ちくださいと言われた。先客はもう終わりかけだったようで、待つほどでもなく置いてあった漫画の単行本を一冊読み終わらないうちに俺たちの番となった。
 いかがいたしましょう、このあたりで少し短めに、分かりました──それだけ交わしたあとは、会話もなくただシャキシャキと髪の毛を切る小気味のいい音だけが響く。
 会話もなければ音楽もない。テレビはあるのに点いているのを見たことがない。ただひたすら鋏の音と、時折一瞬外を通る車の音か通行人の声しかない空間。静かすぎて、他人とふたりきりではややもすれば気まずい雰囲気が漂いそうな。
 なのになぜだか居心地がいい。
 前のアパートから歩いて五分のこの理容室には、上京してきてから変わらずにずっと通っている。一応長年の付き合いと言えるから店主の親父もこっちの顔は覚えているとは思うが、こんにちは、お待ちください、どうしますか、こうしてください、いかがでしょう、ありがとうございました──そういう必要以上の会話を交わしたことがない。
 親父と他の客が会話をしていることはたまにあっても、話が盛り上がってわっはっはとか、そういうのは一度も聞いたことがない。客から話を振られれば静かに返す。それだけ。
 話かけなければ親父からは話さない。こちらも特に話すことはないから結果として雑談の類の会話をしたことがない。単純な図式。
 寡黙な親父だ。接客は丁寧だが愛想があるとは言えない。座席がふたつとふたり掛けの待合ベンチでいっぱいになる開放感とは程遠い小さな店内。
 それでも俺も半身も、この親父のこの理容室がなんだかとても好きだった。
 なぜだろうと半身と考えてみたことがある。清潔に管理されたこぢんまりとした店構えがいいのか、沈黙でも気まずくない不思議な雰囲気がいいのか、親父の腕がいいからいいのか。いやおそらく全部なんだと結論付けた。
 新しい街での開拓をすぐに諦めたのも、絶対にここに敵う理容室も美容室もないという前提のもとでいたからだ。
 理想の立地に理想の間取りで快適なふたり暮らしと文句の付け所がない引っ越しの唯一の後悔、この理容室が遠くなってしまったこと。さすがにそこまで頭が回らなかった。
 それはそうと、相変わらず親父とは会話をしないまま、心地好くうとうととしている間に髪は指定通りに切り揃えられ、手早くシャンプーされ、快感を覚えるほど優しく剃られたつるつるの頬に、やっぱりこの親父のこの理容室じゃないとと認識新たにありがとうございましたと言って大満足で理容室をあとにした。


 散髪したらもう用はない。さっさと帰ってこざっぱりしたいつもと違う髪の香りの半身と存分にセックスしたい。
 それなのに半身は、前もその前もそう言ってすぐ帰っちゃったんだから、今日は久しぶりに太一のとこに寄っていきたいとか馬鹿なことを言うから出掛けにちょっと揉めた。
 結局、帰ってきたらいっぱいサービスするからさと淫乱な半身が卑猥に言うから、仕方ないなと折れて喫茶店で昼を摂る予定を入れた。
 店に入るとすぐにマスターが気付いてどうもと声をかけてきた。理容室とは違いしばしマスターと話をしてサンドイッチとコーヒーを注文したあと、半身が犬はもとい太一はと尋ねた。と、マスターの顔が一瞬曇った。本当に一瞬だったから、半身は気付いていないようだが、俺には確かにそう見えた。
 しかしマスターはすぐさま表情を戻し何事もないかのように、太一は郷里に帰りましたとさらりと言った。
 その言葉に半身は小さく驚きの声を上げ戸惑った。
 だって田舎に帰るなんて何も聞いていない。だから半身はここに寄りたいと言ったし、俺は渋った。
 あの犬は半身に懐きすぎている。半身も半身で、あまりにも懐かれるからか絆されて珍しく他人に心を開いている。俺としては当然おもしろくない。
 俺に対しては、世の中こんな生き物もいるんだななんて興味津々に絡んでくる。鬱陶しいテンションで、眼鏡の克哉さーんとか言って。
 つまりあの犬は俺たちに気付いている。眼鏡をかけているかいないかで、俺という佐伯克哉と、半身という佐伯克哉が切り替わるんだと。
 さすがにふたりの克哉は家に帰れば分裂して尚且つ愛し合っていてラブラブ同棲中なんてことまでは察しているわけではなく、二重人格の類いだと見ていただろうが。
 眼鏡を渡され俺が表に出るようになってまだそう日が経たない頃だ。休日散歩に出た半身が喫茶店の前を通り掛かると、お兄さんコーヒー飲んでかないと犬が唐突に声をかけてきた。
 戸惑う半身を強引に連れ込んで、名前はだの家はこのへんなのだの仕事は何してるのと根掘り葉掘り捲し立てた。
 前からよく見かけてたけど最近眼鏡かけるようになったからイメチェンでもしたのかなって気になって思いきって声かけてみちゃった、だと。
 眼鏡かけるようになったから、の部分で、半身には悟られない程度に、裏にいる俺だけが感付く意味ありげな目配せをしながら。
 あの頃はまだ、通勤時でも休日でも眼鏡をかけて出歩くことは数えるほどしかなかったのに、この犬はそのわずかな数回で俺を認識しおよその人格まで確信しているのだとすぐに分かった。犬は人間の数万倍の嗅覚を持つというがなるほど侮れない。
 駅前通りのこの道通勤で通り過ぎるサラリーマンなんてごまんといるのに、眼鏡という些細な変化に気付くなんて、見かける程度じゃなく明確に半身を狙い澄ませて見ていたということだ。
 俺は半身の奥底で眠っていた時だって、半身を見つめるどんな目線だって見逃したことがない。色恋の意味がなくとも、とにかく半身への視線は漏らさず感じ取ってきた。
 それなのに、言われるまで、言われてそれまでを振り返ってみても、犬の視線には全く気付かなかった。半身を見るものだけじゃなく、俺への直の視線すら、一切感じたことはなかった。
 この喫茶店の前は平日なら毎日通るし、休日も散歩でたまに通る。にも関わらず、一度たりともだ。
 俺すら気付かないうちに観察されて、通り過ぎる一瞬の間に、あの眼鏡はイメチェンなどではなく『違う』んだと理解する。
 なんだこいつは。不気味なまでの勘のよさ。気配を完全に消した視線──。
 薄気味悪い。あまり関わるべきじゃないと妙な胸騒ぎを覚えた。
 さっさと出ていきたいのに、気圧された半身は矢継ぎ早な質問に全て馬鹿正直に答え、そのうち何故だか和気藹々としだしてサンドイッチとコーヒーが運ばれあっという間に打ち解けてしまった。他人を拒絶する半身にあっさり入り込めたのがなお気味悪い。
 それでも一応害はないしサンドイッチとコーヒーはうまかったからその後も喫茶店に通うのを許したのが間違い、バンドやってるから聞きにきてだのどんどん仲良くなってしまった。
 あまつさえ俺が表の時にも眼鏡の克哉さんなんて勝手に名付けて懐いてくるようになった。
 俺も半身も、外でひとりの佐伯克哉になる時は切り替えによって人格の違和感がなるべく出ないようにお互いの性格の真ん中になるような克哉を演じるようにしている。まあ半身にそんな器用さを求めるのはなかなか難しいから、主に俺が半身よりの性格を演じることでバランスを取ってる。
 だが『俺』を分かってるやつに取り繕う必要はない。声をかけられてもほとんど無視してるのに、眼鏡の克哉さんは冷たいんだから~とか言ってめげない。うざい。
 半身も半身で、お前って太一にはほんと冷たいよな、なんか変だなって思われちゃうよ太一は勘がいいんだからなんて馬鹿みたいに言う。お前はその勘のよさを少しは見習え。
 この前会ったのは冬か。最後に連絡がきたのは──そういえば、春頃にメールがきて以来、なんの音沙汰もなくなっていた気がする。メールの内容はよくは覚えていないが、ごく普通のやり取りをしただけで、実家に帰るとかそんな話は一切なかった。
 いつ帰ったんですかと半身が慌てて聞くと、春頃ですねとマスターは答えた。やはり。普段と変わらないメールを最後に何も告げずに消えたということか。
 郷里に帰って家業を継ぐらしいが詳しいことは分からないとマスターは淡々と言ったが嘘だろう。『郷里に帰って家業を継ぐ』部分ではなくて、『詳しいことは分からない』のほうだ。
 これはただの俺の勘だが、このマスターとあの犬はただの雇い主とバイトではなくもっと深い繋がりがあるように見える。例えば親戚──叔父と甥とかそんなところか。
 親戚だとかそんな話は出たことはないが、マスターの犬の名前を呼ぶトーンが明らかに身内のそれだったし、たまにマスターに対してよそよそしい犬の態度も逆に身内感を強めていた。ひょっとしたら親子か。いやそこまでではないか。まあどうでもいい。
 身を預かるほどの身内なら詳しいことを知らないはずはないし、だったらなんで太一はと聞いた時顔が曇ったんだ。
 本来なら大学を出てすぐに家業を継ぐ予定だったが、今は音楽をやりたいから猶予をもらってるといつだったか言っていたのは俺も覚えている。
 かといって音楽にそこまで本気なわけでもなく、継ぎたくはないが継ぐしかない家業からしばし逃避しているように見えた。
 色々手広くやってるとしか聞いたことがない家業だが、よほどの決心をつけなければ継げない、継いだら継いだで周囲が顔を曇らせるような商売なんだろう。
 あれだけの勘の鋭さと、常に得体の知れない気味の悪さを纏う人間が継ぐ家業ねえ。ふうん?
 半身はサンドイッチを頬張りながら、そういえば最近全然連絡取ってなかったから帰ったらメールしてみよとのんきに思っていたが、無駄なことだろう。返信どころか、アドレス不明で戻ってくるかもしれない。
 もう二度とあの犬に会うことはない。不思議とそんな確信があった。この喫茶店も、次にきた時は跡形もなくなっているかもしれない。でも俺にはどうでもいいことだ。
 ただ、このサンドイッチとコーヒーが味わえなくなるのは少し惜しいなとだけ思った。


 腹も膨れた。さて帰ってセックスだと意気込んだのに、ついでに駅まで遠回りして散歩していってもいいかなと半身が今更提示してきた。いいかなと言われても、ひとつの体になって裏にいる今は表の半身に反対意見も述べられない。喫茶店に寄るのも反対されたのに、さらに散歩なんて言えば俺がうるさいからわざと言わないでいたんだこいつは。帰ったらたっぷりお仕置きしてやる。
 散歩は半身の趣味だ。ふらりと出掛けて長い時は二時間三時間もうろうろしてそのへんでぼんやりしている。
 いや、今はもう何時間もうろうろなんてことはなくなった。家でいちゃついていたいと俺が渋るからだ。外でもふたつの体のふたりになれるなら手を繋いで何時間でも一緒に散歩するのもいいが、こればかりは仕方がない。
 散歩というより運動不足解消に数十分、区画一周の軽いウォーキングといったところか。
 いい天気だから。あそこの通りに新しいパン屋ができたから。ちょっと外に出て気分転換、ちょっと足を運んで遠回り。その程度。
 家にいると考え込むから。外を歩いて景色を見れば、余計なことが浮かばなくていいから。散歩と称してそんな理由で何時間も歩き回っていたひとりの頃とは違う。
 引っ越す前の定番の散歩コースを、嬉しそうに半身が歩く。
 風が気持ちいい。今日はからりとしていて風もあるから、体感的には幾分暑さが和らいで日の照る午後でも案外散歩も苦じゃない。半身も、風気持ちいいなーとご機嫌だ。
 この体感は、俺たちにしか分からない。自分が感じていることを、自分以外と一分のたがいもなく等しく共有できる。お前を通じて俺が、俺を通じてお前が。自分が感じていることなのに、そうではないような、でも確かに自分の五感が直に触れている、言葉にはなんとも形容しがたい感覚。
 ふたりになったばかりの頃は、半身は裏にいる間の記憶が曖昧だったりもやがかかったようなぼんやりした知覚しかできていなかったが、今となっては裏の時でも完璧に全ての感覚を得られるようになった。
 それは半身がひとつの体を俺と共有することに慣れたのが一番の理由だが、俺が自分の中に半身がいるという状況に慣れたせいもあるんだと思う。
 長い間、それとは逆だったから。俺が半身の中で、半身を通して見て、聞いて、感じてきたから。
 何も知らないお前が、無意識に俺に渡す信号をひとつも漏らすまいと必死で受け止めるのが俺の生の全てだったから。
 いつもより短くした前髪が、風に揺られて額を撫でる。渇いた風の温度も、切りたての毛先のむず痒さも、感じようとしなくても感じるし、伝えようとしなくても伝わるんだ。
 よし、帰ろっか。半身が俺に呼びかける。お前の中に俺がいることを、お前はもう知っているから。
 早く帰ろう。帰ったら、短くなった髪を撫でて、似合ってるぞと言ってやろう。散歩で少し汗ばんだ体をシャワーでさっぱりと流そう。そして夕飯までベッドにいよう。飯を食べたら今度は日付が変わるまで。
 だから早く、家に帰ってふたりになろう。
2015.10.19