レシーブ ☆
このお話 の前日談*克哉両親超捏造*克哉の本籍は栃木のままの設定



 克哉は一人っ子だ。
 両親は子沢山に憧れていたようだがなかなか恵まれず、そのため一粒種の克哉には一心に愛情を注いだ。
 幼心にも両親の愛はよく実感していたから、いじめに遭っていた時も、絶対に心配させてはいけないとひた隠しにしていた。
 小学校を卒業して以来どこか雰囲気の変わった克哉であろうが、両親にとってはうちのかわいい克哉であることにはなんら変わりなく、俯いた人生の中でもなんとか真っ直ぐ歩んでこれたのは両親のおかげである外はない。
 子育てが一段落すれば、あとはかわいいお嫁さんと孫の顔が見たいというのが親の心理だと思うし、克哉にとってもそれが両親へのせめてもの恩返しの一つだと思っていた。
 結婚について言われたことはまだないが、恐らく両親の間では、克哉も頃いい年齢だしそろそろ、などといった会話がされていてもおかしくはない。相手がいることはなんとなく感づいているようだから、なおさらに。
 大切に育てた一人息子が立派に成長して、社会に出て、いいお嫁さんをもらって、家庭を持って。
 息子が築いた幸せな家庭を見守る、穏やかな老後。極々一般的な、当たり前の未来予想。
 だから、まさか、よもや、かわいいお嫁さんではなく、かっこいいお婿さんを連れてくるとは、夢にも思っていない。


 プロポーズをされて、だいぶ待たせてしまったもののイエスと返事をした。となれば、次にすべきことは両家への挨拶だ。
 両親に挨拶をして、余程のことがない限りは許しを得て、式を挙げるならあれこれ準備をして、祝福されて、晴れて夫婦になれる。
 と、普通のカップルであればそういう流れになるが、克哉と御堂は、『普通のカップル』ではないのが事実だ。
 男同士という、余程のことがない限りの余程のことがまずあるわけで、双方の両親にはそこを受け入れてもらうことから始めなくてはならない。
 御堂克哉になってみないか、オレをあなたの家族に。二人の決意は固いが、言うは易く行うは難しで様々な問題がある。
 籍を入れるのは何が何でも今でなくてはというものではないから、とりあえずは、男性と交際していることを伝えるのが先決だ。
「実家に、お礼の電話をしようと思うんですけど」
「そうか」
「はい。それで、あの、ついでって言ったらあれなんですけど、タイミング的にも、ちょうどいいかなって……だから」
「……そうだな。悪いが、任せてしまってもいいか?」
「はい、もちろん」
 シカゴから帰って、落ち着いたら挨拶に行こうと、昨年の夏に話した。
 本当はもっと早く、一度挨拶だけでもしておくべきだと御堂はずっと考えていたようだが、そう言うと克哉があれこれ悩むだろうと思って言わないでおいたらしい。
「じゃあ、まず……メール、してみますね」
「ああ」
 一室に帰ってきてすぐから、展示会の準備で会社に泊まり込む日もあるほど忙しかったり、販促企画のイベントにあちこち飛び回り定時後に帰社してそれからデスクワークという息つく間もない多忙な日々が三ヶ月近く続いた。
 春から夏にかけては毎年こうで、いよいよ気温が上がりドリンク消費が増えるこれからはさらに忙しくなると覚悟していたのだが、一転、むしろ定時まで何をして過ごそうというほど業務はすっかり落ち着いてしまって、一室の社員たちは拍子抜けしている。
 いわゆる嵐の前の静けさなんじゃないかなどと一時期は戦々恐々としていた一室内も、なんのトラブルもなく平和に過ぎていく毎日に気を緩め、業務中に夏のバカンスの話題で盛り上がり通りすがった部の長に叱られる始末だった。
 そうして部下を叱った直後にこの部長は、恋人を執務室に呼び出し今年はバリに行きたいんだがと提案し、それは家に帰ってから話しましょうと窘められるのだった。
 つまりそれだけ御堂も克哉も言ってみれば暇で、定時に業務を始め定時に終わり、この時期としては信じられないほどゆったりとした日々を送っている。
 まるでお膳立てされているかのように、心身ともに、時間にも余裕がある。ならばすべきはまさに今だと、言うまでもなくお互い分かっている。
「送りました」
「ああ」
 午前中、克哉の実家からあれこれ荷物が届いた。
 中身は両親が育てた家庭菜園の野菜であったり素麺であったり、学生時代から時に届く救援物資は、必要のなくなった今でも親としてはいろいろと送りたくなるものらしい。
 御堂と生活を共にしてからも、実家からの配達物は元のアパートに送られていた。アパートを完全に引き払ってからやっと引っ越したと連絡をしたが、その時はまだ、同居人の存在も、御堂の名も告げることはなかった。
 住所の地名を聞いて、そんないいとこ家賃高そう、大きい会社に勤めてるからって身の丈にあった生活しなきゃ駄目よなどと言われたが笑ってごまかした。
 いずれは両親にもきちんと言わなければと思ったそのいずれの時を、ついに今迎えている。
「あ……返信きました」
「ん」
 電話をかけてもいいかとメールを送った父からの返信。

 いいよー\(^o^)/

 画面に表示されたなんとも和やかな一文に、強張っていた肩の力が少し抜けた。
「……君のお父さんは、明るい人なんだな」
「ああ、まあ、そうですね。結構陽気です」
「君似で、陽気……」
 御堂は画面を覗き込んだまま眉根を寄せ、懸命に『陽気な克哉』を思い浮かべているようだ。
 以前、克哉が幼い頃の写真を見せた時、君はお父さんそっくりなんだなと言われて、でも性格は全然違いますよと返した。
 明るくちょっぴりお茶目な父と、一つ年下の父を尻に敷く姐御肌の母。
 消極的で後ろ向きな自分の性格は、一体誰に似たのか不思議だ。
「じゃあ、かけます」
「ああ」
 気持ち震える指先を見ないことにして、一度深呼吸をしてから、えいっと通話ボタンを押した。
『はーい』
 ワンコールもしないうちに父の声が応じて、思わずおっと体を引いた。たまにメールではやり取りするが、話すのは久しぶりだ。
「こんばんは。元気?」
『おーモリモリ。お前も元気か』
「うん、おかげさまで」
『そうかそうか』
 荷物の礼を言って、近況報告をしあう。久しぶりの息子との会話が嬉しいのか、父は次から次へと話題を出してはしゃいでいる。
 そんな父には悪いが、克哉の頭の中はいつ切り出すかどう切り出すかでいっぱいで、相槌を打ちつつも会話の内容は右から左へ流れていく。
 趣味でやっている草バレーの試合での武勇伝を揚々と語る父に、これから衝撃的なことを伝えなければならない。
『──ってことで、今度またいろいろ荷物送ってやるからな。これからまだまだ暑くなるけどちゃんと食べてしっかり働いて……』
「あ、あっ、お父さん!」
 うんうんと聞いているうちに、父は言うだけ言って満足したのか切り上げられそうになったから、慌てて引き止める。
『ん? どうした』
「うん、あのさ、ちょっと、話、あるんだけど」
『おおそうか。お父さんばっかり話してごめんな』
「いや……」
 心臓がばくばくしている。用意していた言葉が鼓動の度に頭から消えていって、なんと言えばいいのか分からなくなってしまう。
 驚くだろう。傷付けてしまうかもしれない。
 一人息子が男性と交際をしていて、同じ戸籍に名前を並べたいと言う。
 もちろん、御堂と付き合っている事実にはやましいことなど一つもない。もし必要があるならば、御堂と自分は恋人同士であると、全世界に向けて高らかに宣言したっていい。
 しかし親の心境としてはいかなるものか。
 時はきたと決意して電話をかけたはずなのに、実際父の声を聞いて話をすると、なんだか心苦しくなってくる。
『克哉ー? どうしたー?』
「ああ、ごめん。あの、あのさ」
 例え傷付けることになったって、言わなくてはならない。自分の口から、きちんと告げないと。
 そう思うもどうにも踏ん切りがつかず、せめて気持ちを鎮めようと隣に座る御堂に視線を移すと、御堂はじっと克哉を見ていた。
「あ……」
 出会ったあの時、克哉を冷たく蔑んでいた瞳は、今はこんなにもあたたかな愛情に満ちている。
 愛していると、私のそばで生きていけと、いつでも強く語っている。
 もしもあの日、本多が書類を拾わなければ。MGNに乗り込まなければ。眼鏡をかけなければ。『接待』に応じなければ。芽生えた気持ちを、あるがままにぶつけていなければ。
 遠く前を行く御堂の背中に追いつき、隣に並んで歩むことを怯んで、立ち止まっていたら。
 どこかで何かが一つでも違っていたら、今こうして、この場所で、この瞳と見つめ合うことはできなかった。
 それは奇跡の積み重ねのような、定められた運命のような。
 そして何よりも、この世に生を受けたから。
 父と母、二人が克哉に渡してくれたから、愛しいこの人と出会い、共に生きる果てない一生を誓い合えた。
「──お父さんとお母さんに、会ってほしい人がいるんだ」
 耳を打つ激しい鼓動も、罪悪感を含んだ心苦しさも、もう克哉の内にはなかった。
 なんの迷いもなく自然と零れた言葉に、見つめ合ったままの御堂が僅かに微笑んだ。
 大丈夫。この選択は、決して間違いじゃない。
『会ってほしい人?』
 父は不思議そうな声を出したが、すぐに意味が思い当たったらしく、電話の向こうではっとした気配がした。
『おー! おー! そうか克哉! おー、そうかお前ー! そうかー!』
 わあっと上げた声は、端末を当てた右耳とは逆の位置にいる御堂にすら聞こえたようで、御堂が少し驚いた顔をした。
 息子の待望の報告に、父の喜びは予想以上だ。
『うんうん会うよ。会うぞー。こっちくるのか? お父さんたちがそっち行ってもいいし』
「うん、その前にさ、ちょっと」
『土曜か? 日曜か? いや休みの時じゃなくても、お前たちの都合がいい時でいいぞ』
「うん、ありがと。それでさ、お父さん」
『そうかー! いやぁそうかー! 感慨深いなぁ』
「おとう……」
『あっ、お母さんお母さん、ちょっと、克哉が』
「お父さんっ!」
 興奮しすぎて克哉の声が耳に入らない父に、つい大きな声が出た。
『な、なんだ、どうした。はっ、お父さん興奮しすぎか。そうだな、ごめん。もうなんか、嬉しくて』
「うん、よかった」
『うん、おめでとう、克哉』
「うん、ありがとう」
 礼を言うと、父はなんだか照れたようにふふっと笑った。
 見なくてもはっきりと目に浮かぶ。元より柔和な顔立ちの父が、目を細めて嬉しそうに笑う姿。
 ──よくやったな。偉いな。いい子だ。
 幼い頃、そう言って頭を撫でてくれた時と同じ表情を、電話の向こうでしているのだろう。
「それで、ちょっと、いつにするとかその前に、話しておくことがあって」
『うん、なんだ』
「うん」
 目を閉じて深く息を吐いてから、目を開いて前を向く。
 いい子だって、言ってくれなくていい。頭を撫でてくれなくていい。
 ただ、これから告げることを、ほんの少しでもいいから、どうか理解してくれますように。
「相手の人について、どんな人かって、先に言っておきたいんだ」
『おお、そうか』
「うん。えっと、まず、実は、オレの上司なんだ」
『おっ、社内恋愛してたのか。しかも上司! ひゅー、克哉やるぅ』
「……お父さん」
『はいはいごめん。どうぞ』
 ううんっとわざとらしい咳払いをして、気を取り直す。
「今オレは企画開発部に所属してるけど、そこの、部長を務めてる人」
『……え? 部長? 部長さん? 部長?』
「うん」
『ん? 企画開発の、MGNの企画開発部の、部長さんってことだよな?』
「うん。あ、部長って言っても、まだ三十代だよ。オレより七つ年上なんだけど」
『三十代? お前より七つ上って、えーっと三十八歳? それで部長? え、すごいな。三十八歳でMGNの部長さん。はー』
「うん。すごい人だよ。上司としてもすごく尊敬してるし、オレの目標の人」
『そうか。いい人と出会えたな』
「うん」
『姉さん女房かー。お父さんたちと同じだ』
「……そうだね」
 『女房』では、ないのだけれど。
 当然ながら父は、相手は女性だとしか思っていない。
 三十代で大企業の一部署を取り仕切る女性。
 父の中ではどんな人物像が浮かんでいるのだろうか。
 なんとなく、外見だけを言えば、御堂がそのまま女性になったような姿が想像されている気がした。
「それで、名前が……」
 まず一つ、告げるべきこと。一番重要な事実。
 お父さん、お母さん、どうか、どうか。
「その人の名前は、御堂孝典さんといいます」
『そうか、みどうたかのりさん』
「はい」
『ふふふ、たかのりさん。たかのりさん……たかのり、たか、のり……?』
「はい、お父さん。お父さんとお母さんに会ってほしい、オレの大切な人は、御堂孝典という人です」
 ついに伝えられた。
 ようやく、両親に大切な人の存在を打ち明けることができた。
 素晴らしい人に出会えたのだと、やっと言えるようになったんだ。
 御堂の名を明かしただけなのに、なんだか不思議な高揚感があった。けれども満足してはいられない。まだ、告げる衝撃のことは残っている。
 父からはなんの言葉も返ってこず、しばらくただ沈黙が流れる。
 戸惑っているだろう。もしかしたら、言われたことが理解できていないかもしれない。
 何を言われてもいい。どんな言葉を返されても、全て受け入れる。
『……ずいぶん、変わった、名前だな』
 一分ほどの長い沈黙のあと、途切れ途切れに父が呟いた。
 変わった名前、ときた。
「……そうかな」
『うん。だって、『たかのり』って、なあ。女の子で『たかのり』は、珍しいだろ』
「……そう、だね。女の人では、なかなか、っていうか多分絶対、いないだろうね」
『だろう?』
「うん」
『……』
「……」
 また沈黙。
 すぐに理解できるわけがない。動揺しないわけがない。もし自分が父の立場なら、今頃頭の中は大パニックだ。
 どうしようか、一度電話を切って、落ち着くのを待ってからかけ直したほうがいいか。
 遠い距離ではないのだから、電話ではなく、まずは克哉だけで実家に行って、直接話をすればよかったかもしれない。
 荷物の礼もあってタイミングがいいと電話にしてしまったが、直接のほうが母にも一緒に聞いてもらえるし、もっとゆっくり話すことができたはずだ。
 切り出す踏ん切りがなかなかつかないんじゃないかという懸念はあるが、話の重要度からすれば、きちんと顔を見て打ち明けるべきだった。
 とんでもない大失敗に今更気付いて、ソファに背を付け天井を仰ぐと、御堂が顔を覗き込んできた。
 心配そうに眉を下げ、表情で大丈夫かと問う御堂に、大丈夫、と、苦笑気味に微笑んで頷いて見せた。
『克哉』
 なんだったら、まだ新幹線もある時間だし、今からでも実家に……と真剣に考え始めたところで、父が名を呼んだ。
 いや全て今更だ。しばらく待たせて夜遅くに訪ねて行って、さあ続きを聞けとはあまりにも横暴だ。このまま話をしよう。
「はい」
『冗談とかじゃ、ないよな?』
「……うん。冗談じゃ、ないです」
『男と、付き合ってるってことで、いいのか……?』
「……うん。黙ってて、ごめんなさい。お父さん、オレは今、男の人とお付き合いしています」
 受話口の向こうから、ふうっと短い溜め息が聞こえた。
 察してくださいというような曖昧な表現ではなく、相手は男なんだと確かな言葉で聞かされて、衝撃を新たにしたようだ。
「六年に、なるのかな、今年で。うん、付き合ってから六年で、今、一緒に暮らしてます」
『えっ? 暮らし……?』
「うん。いっぱい驚かせてごめん」
 この電話で、どこからどこまで話せばいいのか分からない。ただ、父が聞いてくれているうちは順を追って話しておきたい。
 もし、会うことはできないと言われても、関係だけはきちんと説明をするべきだ。
「今住んでるとこは、家賃の心配もされたけどほんとは御堂さんのマンションで、そこにオレが越してきたんだ。完全に引っ越したのは、引っ越したって連絡した時なんだけど、付き合ってすぐからもう、ほとんど一緒に暮らしてる状態で」
『六年も前から、ずっと……』
「うん……御堂さんは、付き合い始めた頃からちゃんとうちに挨拶に行きたいと思ってたみたいなんだけど、オレが情けなかったっていうか、いろんなことを躊躇してたせいで、六年もお父さんたちに隠すようなことになっちゃってたんだ。長い間、言えなくてごめんなさい」
『ああ、いや……』
 自分のせいで隠す形になってしまったのであって、御堂は誠意ある人なんだと無意識に強調していた。
 六年間、いつも御堂を待たせるばかりで散々もどかしい思いをさせた。それでも呆れず見捨てず、辛抱強く御堂は克哉のそばにいてくれた。
 そんな人のことを、わずかでも誤解させたくない。
「それでさ、それで、びっくりの上に、またびっくりさせちゃうんだけど」
 初めに、会ってほしい人がいると言った。つまりは結婚相手を連れてくるんだと、父はすぐに理解した。
 しかし交際相手が男だと聞かされた今は、結婚など頭の隅にもなくなっているだろう。
 一人息子が男と交際していて、生活を共にしている。それだけでも十二分な衝撃なのに、今告げるもう一つことは、どれだけ父に、両親に追い打ちをかけるだろうか。
 親に対して酷い仕打ちをしているのは分かっている。それでも、御堂と自分が決意したことを全て伝えなくては、先へは何も進めない。
「御堂孝典さんと、お付き合いをしているんだけど、その先っていうか、将来のことも、考えてるんだ」
『……将来?』
「つまり……籍を同じくしたいんだけど、もちろん、男、同士、では結婚はできないから、養子縁組って形で」
『よう、し……』
「うん。今の日本で正式な家族になるには、そういう方法を取るしかないんだ。年上の戸籍に年下が養子に入るから、オレが御堂さんの籍に入って、み、御堂克哉、に、なります……」
『……』
「あ、養子縁組しても、オレの戸籍の父母は、お父さんとお母さんのままだよ。もちろん、それは全然変わりないから。父母と一緒に、養父って記載されるんだって」
『……』
「お父さんとお母さんの戸籍には、オレが御堂孝典さんの養子になって籍を抜けたって記載されることになるんだけど、もしそれがいやだなって思ったら、記載しないようにも手続き次第でできるから、そこはお父さんたちの希望通りにするよ」
『……』
「……えっと、籍を入れるっていうのは、正直自己満足なとこが一番大きいんだけど、これからもっと先とか、もしお互いに何かあった時には、法律上の繋がりがあったほうがいいこともあると思うんだ。だからその時困らないように、ちゃんとしておきたい」
『……』
「もちろんあくまでも、お父さんとお母さんと、御堂さんのご両親が了承してくれたらって話になるんだけど」
『……』
「それを踏まえて、お父さんとお母さんに、御堂さんと会ってほしいんです」
『……』
「……あー、あの、話っていうのは、以上、です」
『……』
「……」
 まだ詳しく説明しなくてはいけない部分はいくらでもあるが、あまり一度に話しても、混乱している父をただ追い込むだけだ。
 要点はなんとか言えたから、あとは父からどう反応が返ってくるかによって対処が変わる。
 このまま何も言わずに電話を切られる可能性もあるから、そうなれば今度こそは直接実家に行ってなどと考えていると、受話口の向こうから「お父さん?」と母の声が聞こえた。
 大はしゃぎで息子と話していたはずの夫が、何度も黙り込む様子を心配した声音だ。
 次は母にも説明しなくてはいけない。
 母もショックを受けるだろう。悲しむだろうか。泣かせてしまうかもしれない。
 克哉どうしてと泣いている母の姿が脳裏を過ぎって、胸の痛みに眉をしかめたところ。
『……お母さんと、話すから、あとでかけ直す』
 ずっと無反応だった父から、小さく言葉が返ってきた。
 もっと間が取られるかと思っていたから、案外早い反応に少し驚く。
 いつも明朗な父の、初めて聞くようなぼそぼそとした低い声。
「あっ、うん、お母さんと、うん、そうだね。あっ、あの、ご返答は、今日じゃなくても、全然、いいので」
『……いや、すぐかける。ちょっと待ってて』
「そっか。うん、分かった」
『じゃあ』
「うん……」
 電話を切ったと同時、軋むほどに張り詰めていた緊張の糸が勢いよく弾け飛んだ音がして、一気に気が抜けた。
 思考の全てが霧散してしまって、頭の中が空洞だらけで電気信号が伝わらない。
 どうなるんだろう。なんなんだろう。なんだろう。分からない。
 視界がぼやけてきた。照明が消えて真っ暗になった液晶画面には、ぼけっと口を開けた間抜けな自分の顔が映っている。
「克哉」
「はっ」
 御堂に静かに名を呼ばれて、やっと我に返った。
「大丈夫か?」
「は、はい、はい。あの、父からは、まだ何も。母と話してかけ直すって」
「そうか」
「はい……」
 深く息を吐いて、半ば無意識に御堂の肩に凭れると、労うように頭を撫でられほっとした。
 よくやった、いい子だなと、優しく髪を梳くあたたかな手。
 大きな手の感触にこんなにも安心するのは、同じぬくもりを生まれた時から知っていたからだったのだと、今ようやく気付いた。
「『孝典』って……」
「ん?」
「『孝典』って、変わった名前だって」
「……うん?」
「女性で『孝典』って、珍しいって」
「……そうか」
「はい」
 軽く引き寄せられた体をさらに密着させ、すり寄った鼻先を御堂の首元に埋める。慣れた御堂の香りに、つい溜め息が出た。
 ぼうっとしていた脳内に酸素が行き渡って、思考回路がはっきりしてくる。
「オレだけで先に実家に行って、直接話したほうがよかったなって、思いました」
「そうか」
「大失敗です」
「そうか」
「はい」
 克哉も御堂も、他には何も言わなかった。
 両親への対応については、これまでも御堂と話し合ってきた。
 双方の両親がきちんと納得し了承してくれるまでは、籍は入れない。
 早く家族になりたいのは山々だ。けれど、互いに一人息子で、両親との仲は良好で、いい大人なのだから、自分たちがよければそれでいいとは思わない。
 もし、いくらどう頑張っても、どうしても認められる日がこないのであれば、籍を入れるのは諦めようとすら。
 改めて確認し合う必要もないほど、よくよく熟考したことだ。
 だから今はただゆるやかに抱き合って、静かに時を待つ。
 御堂の手は心地好くて、寄り添う体はあたたかくて、包む静寂に自然とまぶたが落ちる。
 柔らかな暗闇の中ふと、いつか御堂が、あるいは克哉が永遠に時を止める瞬間も、こんなふうに眠りに就けたらいいと、おかしなことを思った。
 来たるいつかは、愛する人の腕の中で、静かに。
 どちらかはしばらく一人になってしまうけれど、また再び会える日には、二人寄り添い共に光の場所まで昇るのだろう。
 御堂を失うのは怖い。正気でいられる自信なんかない。想像するのもいやだ。一人にさせてしまうのも辛い。離れたくない。
 しかしそこまで辿り着いて初めて一生を添い遂げたと言えるのだと思えば、それは焦がれるほどに崇高で、この上なく満ち足りたことのように思えた。
「克哉」
 穏やかな声が、耳元から全身にじわりと染みる。
 御堂が自分の名前を呼ぶ。たったそれだけのことが、嬉しくて幸せで狂おしい。
「はい」
「呼びたくなった」
「え?」
「君の名前を、呼びたくなった」
「……はい」
「ああ」
「……」
「……」
「孝典さん」
「なんだ」
「呼んだだけです」
「そうか、克哉」
「はい、孝典さん」
 数え切れぬほどに呼び合った、愛しい名前。これからも繰り返される、変わらぬやり取り。
 この先もずっと、いつでも互いを確かめ合いながら、同じ人生を紡ぐ。
 病める時も、健やかなる時も、喜びの時も、悲しみの時も、愛し、敬い、命ある限り。
 そして命尽きてもなお、共に二人で。
 けれどもその道程は、決して二人きりで作り上げられるものではない。
 いつでも優しく見守り、時には力強く手を差し伸べてくれる人たちがいればこそ、迷わず、恐れず、果てなく続く先までをも築けるのだと、克哉も、御堂も、今この瞬間強く思っていた。

 いつの間にか、つい微睡んでしまっていたようだ。
 いくら御堂の腕の中が心地いいとはいえ、こんな時に一瞬でも眠ってしまうなんて。
 しかも御堂も同じくうとうととしていたらしく、着信を告げる振動音に二人して体を跳ねさせたことに、顔を見合わせて互いに苦笑した。
「出ますね」
「ああ」
 電話を切ってから、約十分が経過していた。
 十分。短いのか、長いのか。両親の間でどんな話し合いがされたのか。結論は出たのか。
 一旦解散していた緊張が、お呼びですかとばかりに戻ってきた。
「はい」
『お待たせ』
「いえ」
『えーっと、それで──』
 緊張はしていたが、心の中は落ち着いていた。
 認められない。そう言われたっていい。
 説得するために、両親との会話が増えるじゃないか。実家に足を運ぶことも多くなるだろう。
 上京してから、両親とじっくり話し合うことなんて滅多になかった。いい機会だ。たくさん話そう。
『次の週末は、お母さんが友達と旅行でいないんだ。その次の土日なら大丈夫なんだけど、お前たちはどうだ?』
「……えっ?」
 緊張しすぎたのだろうか。父の言葉がよく耳に入ってこなかった。
 お母さんが旅行で……なんだって?
『お盆もあるけど、まだちょっと先だからなぁ。それに、お盆はお前仕事なんだろ?』
「え、あ、うん。お盆は、普通に、仕事……」
『だよな。やっぱり土日が一番いいか。あー……御堂さん、は、出身はどちらなんだ? 栃木にいらしたことはあるのかな』
「へっ」
『今の季節は森林浴なんて最高だぞ。もしこっちにくるなら、ついでに一泊くらいしてゆっくりすればいい』
「あっ」
『しかしあれだ、お前の直属の上司のかたでもあるとなると、二重の緊張感があってもう今からどきどきだよははは』
「っ」
 鼓動が早くて苦しい。
 父の言っていることは、どういうことだろう。よく分からない。
 分からないのだけれど、もしかしたら、ひょっとして、いやそんな。
「お、お父さん」
『ん?』
「あの……いいの?」
『何が』
「……会ってくれるの?」
『んー? 会ってくれるのってそりゃ、だから、最初に会うぞーって言っただろ?』
「うん。でも、だって、それは、そうじゃなくて、その」
『なんだ。はっきり言いなさい』
「……御堂孝典さんと、会ってくれるの?」
『他に誰と会うんだ?』
 会えない。認められない。そう言われることばかりを考えていたから、この展開の処理ができない。
 何かおかしくはないか。もしかしたら父は、母も、勘違いしているのではないか。
 あまりにも混乱しすぎて、話が正しく飲み込めていないのかもしれない。
 そうだ。きっとそうだ。
「お父さん、あの、もう一回、話の整理したいんだけど」
『おう』
「えーっと、お父さんとお母さんに、会ってほしい人がいます」
『はい』
「その人は、御堂孝典さんという人です。男の人です」
『はい』
「オレは、御堂孝典さんとお付き合いをしていて、一緒に暮らしています」
『はい』
「それで、その御堂さんと、養子縁組って形で、籍を入れたいと思ってます」
『はい』
「なので、そのつもりで、お父さんとお母さんに、御堂孝典さんと会ってほしいと思っています」
『はい』
「……え?」
『は?』
 やっぱりおかしい。どうしてこんなにあっさりしているんだ。
 普通はもっと驚いて、どういうことだって問い詰めたり、何を馬鹿なって言うんじゃないのか。
 親へのカミングアウトについて調べてみれば、打ち明けることで深く傷付けてしまったり、勘当されてしまったり、そんな話がざらだった。
 相手が同性というだけなのに、世間一般の反応は悲しいかなそれが現実だ。
 秘密にしておくのが、きっと最善なのだろう。
 両親を苦しめるくらいなら、言わないで、ごまかし続けて、隠し事の罪悪感に一生苛まれているほうがいい。
 でも、克哉は知っていてほしいと思った。
 両親が苦しむことになっても、御堂孝典という克哉にとってとてつもなく大きな存在を、両親にも知ってほしかった。
 ひどいエゴだ。なんて親不孝だ。
 だから、何を言われてもよかった。どんなことを言われても、当然だと思った。それほどのことを告げたのだから。 
『克哉』
 笑い混じりの声。
 一人息子に男と籍を入れたいと言われたのに、父は笑っている。
『お前、受け入れられないって前提で電話してきただろ』
「だって! ……だって、そんなのっ……」
 言い訳する子供のような口調の克哉に、父はやっぱり笑った。
 当然だ。最初から、はいそうですかなんて想像できるはずもない。
 打ち明けて、何度も何度も話をしてから、会ってもらえるなら会ってほしいと、そんなつもりだった。
 それなのに、まさか、話したその日に会うと言われるなんて。
『うん、まあな。気持ちは分かる。そりゃさ、びっくりしたよ。うん。知らなかったから、全然』
「うん……」
『うん。びっくりだけど、でも、まあ、そっかって。思ってた形とは少し違うけど、結局は、お前が生涯の伴侶を見つけて、その人を紹介したいって話だろ? だったらいいじゃないか。大歓迎だ』
「……でも」
『お前が選んだ人なんだから、お父さんは、あ、お母さんもな、何も言うことなんかないさ』
「……」
『だろ?』
「……孫の、顔とか、見せてあげられないよ?」
『それはお前、例えばお前が……お嫁さんを連れてきてもだ、絶対ってわけでもないだろう? お父さんたちも結婚してすぐにお前ができたけど、そのあとはまあ、なかなかね。こればっかりは授かりものだから。世の中、夫婦二人だけで仲良く過ごす人たちだってたくさんいるぞ』
「……お父さんたちが、なんか言われて、いやな思いするかもしれないよ?」
『うーん、確かに、難しい問題だと思うよ。周りに例がないからどうなるのか分からないけど、でもそれはお前が気にすることじゃない』
「気にするよ……」
『はは、まあだよな』
 克哉が特に気にしていたことをあっけらかんと笑い飛ばす父が、目の前にいる気がした。
 願望の幻なのは分かっている。けれど、いつもの優しいまなざしをした、強く、大きく、きっと一生敵わない、心から敬愛する父が、穏やかに微笑みここにいる。
『多分、いろんなことがあるだろうな。今はこんな、そっかとか、いいじゃないかとかのんびり言ってるけど、予想できないような、いろんなことがな』
「うん……」
『お前たちはきっと、そういうことも含めて、ものすごくたくさん、いろんなこと考えただろう。その結果として、籍を入れようって、ちゃんと親にも言おうって、何もかも覚悟の上で決断したんだろう』
「……うん」
『お前の性格からして、お父さんたちに話すこと自体、すごい覚悟がいるだろうし』
「……うん」
『誰に何を言われても、何があっても、二人で力を合わせて乗り越えていけるんだな?』
「うん。はい。もちろん。何があっても、二人で、必ず」
『うん、そうだな。お互いにそういう強い気持ちがあるから、男同士だろうと、籍を入れて生涯を共にするって決心した』
「うん」
『じゃあお父さんたちはなんの気持ちかって言ったら、お父さんとお母さんは、克哉のお父さんとお母さんだからなんだ』
「……うん?」
『あのな、親として何よりも一番に考えてることって、子供の幸せなんだよ。この世の何を差し置いても、子供が幸せでいてくれれば、それでいい。それだけで幸せだ』
「あ……」
『親っていうか、少なくともお父さんとお母さんはそうだ。お前が、克哉が幸せで笑っていてくれたら、こんなに嬉しいことはない』
「……おとうさん」
『お前に誰かいい人がいるのは、何年か前から感じてはいたよ。電話したり、たまに帰ってきた時とか、こう、幸せ~っていうのがむんむんしてたから』
「……そ、そう、だった?」
『うん。もうむんむん。MGNに移ったあとからかな。いい会社に移って充実してるんだろうと思ったんだけど、多分それだけじゃないなぁって』
「……恥ずかしい……」
『なんで。いいじゃないか。そういえばお母さんとも、克哉もしかして、あ、気付いた? だよね? って話したの思い出した』
「はーずーかーしー!」
『うふふ。だからよかったなって。克哉幸せそうでよかったなって言ってた。そのあと何年もずっと幸せそうだったから、同じ人と続いてるのかな、だったらいいなって』
「……うん」
『だからいいんだ。相手が男の人なのは確かにびっくりはしたけど、うちの子をそんなに幸せにしてくれてる人なら、男とか女とか、そんなの問題じゃないよ』
「……ほんと?」
『うん、ほんと。ただ、お父さんはそう思ったけど、お母さんはどうかなって。もしかしたらお母さんは違うことを考えるかもしれないって、ちょっと心配した』
「うん……」
『でも、話し終わったお母さんの第一声が、旅行再来週ならよかったね、だったんだ』
「……え?」
『だから、旅行が違う日だったら、次の週末すぐに会えたのにってこと』
「あ……」
『結局、お母さんも同じだった。克哉が幸せならいいって、それだけ考えてる。だったら答えは一つしかない。この喜ばしいことを、心から祝福しようって』
 いろんなことを考えた。御堂ともことあるごとに話し合った。
 想像して、予想して、落ち込む時も少なくはなかった。
 今まで悪い方向ばかりに考えていたあらゆること。それが、父からの祝福というひと言に包まれ、浄化していくような気がした。
『克哉。いいんだよ。お父さんとお母さんは、お前が選んだ人のことも、決めたことも、全部、克哉を信じてる。だから、いいんだ。お父さんたちが思ってることはね、それだけ』
「お父さん……」
 この上なく愛情深い言葉に、じわりと視界が滲む。けれどそれは今ではない。これから両親と実際に会って話をして、御堂の両親にも打ち明けて、様々なことを乗り越えて、そのあとで零れるものであるべきだ。
 今はまだ、泣いてなどいられない。
『お母さんと話すか?』
「えっ。いい。ちょっと、今は、お母さんは、いい」
『お母さんが話したがって』
 せっかく恰好付けて耐えたのに、母はだめだ。父の前では妙な男のプライドもあって耐えられるものの、母なんて声を聞くだけでも確実にくる。
 目が回りそうなほど懸命に首を横に振るが、電話越しの父には当然見えるはずもなく、母に代わられてしまった。
『克哉ー』
「お母さん」
『おめでとう。お母さん、すごく嬉しいよ』
「うん、うん、ありがとう」
『いつでもいいからね。都合いい時で。楽しみにしてるよ』
「うん、ありがとう。ありがとう、お母さん」
 極限まで溢れた滴は睫毛を濡らしたものの、零れることには必死で耐えた。
 もっともらしい理由を並べたところで実際は、今ここで泣いてしまったら簡単には止まらないほどぐしゃぐしゃに号泣してしまいそうだからというのが本音だった。
 震える声に察してくれたのか、母はひと言交わしただけですぐに父に代わった。
 明るく言った母の声だってわずかに震えていたことを、克哉は気付いていた。
 泣かせてしまうかもと心配していたことは当たったが、どうか、嬉しいと言ってくれた意味での涙でありますように。
『ということでだ。日程とか決まったらメールでもいいから教えて』
「あ、あの、そちらに、家に、伺うつもりですが、いいですかっ」
『おー、もちろん大歓迎。じゃあ、うちで待ってるから』
「うん」
『ぴっかぴかに掃除しておかなきゃなあ』
「お父さん」
『んー?』
「ありがとう」
『おー。克哉もな、ありがとう』
「オレは、何も」
『だって、克哉が幸せなら、お父さんも幸せだから。だから、ありがとう』
 本当に。この人には絶対一生敵わない。
 自分がファザコンでマザコンなのは自覚がある。だってこんなにもあたたかな両親のもとに生まれたのだから、そうなることは抗いようもなく必然というものだ。
『あ、でもな、お前を信じてるとは言ったけどな、実際会ってみてこれはいかんと思ったら、息子はやれんってはっきり言うからな。覚悟しておきなさい』
 わざと険しい声の茶化す口調。大丈夫、なんの心配もせず連れてきなさいと、言外に伝えてくれているのが分かる。
 親から子への無償の愛を、この一時間ほどの間にどれだけ感じたことだろう。
「お父さん、ありがとう。ありがとう」
『うん、もういいって』
「うん。でも、ありがとう」
 繰り返す礼に、父が噴き出した。
 まったくこの子はね、と苦笑しながら小さい子供のように言われて、なんだか恥ずかしくて嬉しくて、克哉もへへっと笑う。
『はいはい、じゃあね、御堂さんとも話し合って、スケジュール決めて、また連絡しなさいね』
「うん。ありがとう」
 また礼を言うと、今度は父は豪快に笑って、克哉は照れ笑いをして、そうして笑い合いながら、長く濃密であたたかいひと時の電話を切った。

 待受画面に戻った液晶を見つめながら深く息をはいたあとで、傍らで克哉をじっと見守っていた御堂に顔を向ける。
「孝典さん」
 結果はどうだったのか、言わずとも分かっていると言うように、視線を合わせた御堂が微笑んで頷く。
 慈愛に満ちたまなざしに、何度もこらえた涙がまた零れそうになって、たまらず御堂の肩に顔を伏せ、その体をきつく抱きしめた。
「いつに、するかって」
「そうか。日を決めていなかったからな。段取りが悪かったな」
「はい。段取りが、悪かったです」
「ああ」
「はい」
「ご自宅に伺っても大丈夫か?」
「はい。ぴかぴかに掃除するって」
「そうか」
「はい」
「よかった」
「……はい。よかった」
 よかった。よかった。よかった。そればかりが胸一杯に溢れる。
 両親が受け入れてくれたこと。幸せだと言ってくれたこと。祝福すると言ってくれたこと。両親の子供に生まれたこと。
 御堂と出会えたこと。愛し合えたこと。
 この世の何もかも、地球が回って太陽が輝くことすらも、よかったと思った。
 自分はいかに愛されてきたのか。愛されているのか。だからこそ愛することができるのだと、改めて深く実感した。
 両親には、言えないこともいくつかある。
 御堂とのきっかけや、克哉が事故に遭ったことも、幸い軽傷だったから知らせはしなかった。
 それこそ隠し事の罪悪感に一生苛まれるべきことだから、両親に話すことは一度もないだろう。
 不都合なことは隠して、都合のいいところだけを知ってほしいなんて、どれほどわがままなことだろうか。
「何を着て行ったらいいのだろう」
「服の心配ですか?」
「第一印象は重要だぞ」
「そうですけど」
「手土産は何がいい? 和菓子か? 洋菓子か? はっ、そういえばちょうど飲み頃のいい赤が……」
「もう。そんな心配までしなくても」
 始まりは歪だった。心が砕けそうに辛くて、苦しい日々もあった。不安に惑うこともあった。
 それでも、だからこそ、深く愛し合う今がある。
 どんなに強く愛しても、愛し足りない。毎日いつでも次から次へと想いが溢れて、人はこんなにも誰かを愛することができるのだと、感動すら覚える。
 御堂に与えるもの。御堂から与えられるもの。永遠に失われない尊いもの。
 それは両親に渡されていたから。克哉が生まれる前から、ずっと与えられていたものだから。
 二人にもらった大きなものを、大切に、愛しい人に注ぐ。
 御堂と築く幸せの源は、克哉を満たす無償の愛があったから。
 ありがとう。またそう言えば、父は、母も、分かったからって、優しい目をして笑うだろう。



 ──そして御克SS『道中』に続いたり、『その先もずっと』に続くと思っていただければ
2013.10.26